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「感性と俗とのあいだ」

自分の「今」の感覚とか
色んなものに対する気持ちとか
私自身や環境の状況整理というか
そういったものの「今こうやで」的な記録と備忘録のようなものがたまーに出没します。




自分の中で何もかも整理が付かなくなったのかふらっと旅に出たくなり(現実の旅でなく自分の内部の旅のような意)、突然色んなものと距離を置き出してそろそろ3ヶ月ほど。になるか?
あとから思ってみれば「これが向き合うというやつか」とぼんやりと感じはするものの、渦中のときは「全く何にもしてないな」の日々だった。(いや、というか今も渦中のはずだが)

実際、会った人に「いま自分と向き合ってる時期なんですねえ」と言われたりもしたので、いやぁまあそうとも言うかもしれないけど向き合うっていうニュアンスが自分的には高尚過ぎてあんまりしっくり来ない。とばかり思っていた。体感としてはただただ「ほけ———っとしてた」みたいな感触がいちばん近いし。

でも無理矢理に自分を見つめようせぬでも、なんとなく、自然に?そうなってしまったというか。というのも、ふらふらっと準備のないまま心の旅(言い回しがピンと来んなあ…他になにか言い様は無いんか) に出っぱなしになったもので、なりゆきで時間に置いていかれ、沢山の情報の嵐から疎遠になるなどしたことで、「私は昔からこれが好きだった筈なのに、この何年かこうまでもそのことを忘れていたのか」というモノやコトがまあまあ発掘されてしまった。のだ。なので、たしかにそれが見ようによっては「向き合ったから表面にあらわれてきた」のかもしれないな一応、とは思う。

絵も全く描いてなかったわけじゃないけれど、「作品を仕上げる」という意味では全く描いてないに等しいし、描いては飽き、描いては「コレジャナイ」と止め、没入出来ぬまま悶々とする日々がずっと続き。その悶々とする日々にも飽きる日々。以前はその悶々としたものを抱えたまま描いてた(描けてた)はずだが。 ああ、なるほど悶々に飽きたのか〜私。

でもやっぱり(結果的に)緩やかな情報鎖国状態が功を奏したのかなんなのか、「絵を描き続けないと価値がない意味もない」という、部屋に溜まって爆発寸前だった毒ガスのような毒気がなんでかふしゅ——っと少ーしずつ抜けて、「まあ描いても描かんでもいいか。遊んで描く絵なら描いてみるか」ぐらいまで許容できるようになったのは、自分でも「私の中でなにがあってなんでこうなった?」というぐらいには変な感じがものすごっくしている。いやほんとなんでこうなったの…

いまはというと「ペインティングナイフを思いっきり使いてえ!!!!!」(普段はデジタル描き)という欲がどんと出て来たもんで、イラストレーター時代に使っていたアクリル絵具を引っ張り出して「ペインティングナイフってどれが良いのか?!」とか探しまくり、さあいざやるかと思ったら「あっしまったペーパーパレットがいるじゃん!!」とか躓き、絵の具を盛り盛りにするつもりだったけど「やべ。これメディウムとかモデリングペースト使った方が絶対いいやつだわ……」と後から後から気づくことが次々に出てきて、この初心者丸出し感に笑えてる。こうやって見ると、今までになく原始的に絵を描いているような気がしなくもない。もしかしたら、いま、自分の絵を自分でジャッジしたくないのかもしれないなあ。

少し前までの、創作活動をがんばってがんばってがんばっているときは、いわゆる感性的な感覚が強くて、見るもの触れるもの全てを創作に変換。みたいな時期もあったけど。そっちに振り切るとアート的には確かに良いんだろうけど、だけど…まあ……生きづらいことこの上なし!!!という感じで。人間生活しんどい。みたいな日常だった。今は多分だいぶ人間に近い。「エンタメ!エンタメ!ハァハァエンタメ楽し!」という俗な生活をしているので。おかげで絵描きの感性はちょっと死んでる気がする。どちらかにしか天秤を傾けられない、相変わらず「0か100か」みたいな両極端な性質をしているなあと思う。

おそらく感性も俗も両方たしかに私の中に存在していて、どちらかの比重が重くなるかでそのときの感じ方も生活の捉え方も変わるんだろうな。ということが、やっと、やっと、ちょっとだけわかって来てるらしい。自分はおそろしく飽きっぽいので、どちらか一方だけにするとか無理な話だったのだ。どっちが私か決めようとか、どっちかを切り捨てようかとか、どうせ死ぬまでできやしないのだ。そりゃそうだ!

そんな感じの現状なので、いまの時点では自分がどういう方向に進むか全くわからないけど。完全になりゆきに任せまくっているので、後から後悔の大波も来そうだけど。笑 まあそれはそれでその時の私が頭を抱えて考えるでしょう。

これは綺麗なことでも何でもなくて、むしろ自分の中では「呪い」に近い感覚だけど、その時その時の絵に対する比重が軽い重いはあるにせよ、疲れたからもう良いよという思いがあるにせよ、自分はきっとずっと死ぬまで絵についてのことを切り離すことはもう出来ないのだろうな。あーあ。という諦めにも似た気持ちがある。これまでもずっとそうだった。それが良いこととか悪いこととかいうことでもなく。でも私が望むと望まざるとに拘らず、きっと これからも
そういうふうに、なっている。

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