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成長の季節に解き放ち ひらめく

第10週 6月9日〜6月15日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、自然が様変わりしてゆく姿と自らをシンクロさせて、気づけなかったことに気づく。それは、大いなるものとあなたの関係性のことだよ!という、ややアグレッシブな活動をうながされております。あなたの体験は、あなただけのものではない。

では、読み解いてまいります。

K. ZEHNTE WOCHE (9. JUNI – 15. JUNI [1912]).

10.
Zu sommerlichen Höhen
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich,
Es nimmt mein menschlich Fühlen
In seine Raumesweiten mit,
Erahnend regt im Innern sich
Empfindung dumpf mir kündend,
Erkennen wirst du einst:
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912

  
  夏へ向かう季節
  太陽の輝きがひと回り成長する、
  私の日々の感情を
  果てししないそらに解き放つ、
  するとひらめきが冴え
  茫とした記憶が降りてくる、
  あなたはいつか気づくだろう:
  大いなるものがあなたを感じていることを。


*  



解き放つ


果てししないそらに「ダメだこりゃ…」と解き放ってごらんなさい。

「ダメだこりゃ…」と妥協するのではなく肯定的に「諦める」という感覚をもつことのようです。一見、悪いことのようにとらえるかもしれませんが、仏教では「諦める」を「つまびらかにする」「明らかにする」という意味で使うそうです。

理想を追うことに苦しむのではなく、あるがままを受け入れ、自己肯定してゆくことも時に必要になるのですね。

「ああダメだこりゃ…」
というものを
「まぁダメでも、何かダメなところが自分らしい」
という感覚にもってゆくのです。

作品をつくっていると、憧れている作家の表現に近づきたいと、一生懸命に努力して、来る日も来る日も真似して頑張るも「なんかこれじゃない…」という絶望感に襲われることがしばしばありませんか?

でも、その苦しみの痕跡である作品をみた人からは、「あなたらしい素敵な表現ですね。」と拍子抜けしたようなコメントをもらうことがあるのです。自分ではまったく良く思えないのに…、他人からは新鮮に写っているという、自分では気づけない自分だけのオリジナリティーというものは、そういう経験によって教えられるのでしょう。

頭ではなく、カラダが勝手に表現している状態が最高なのだと思います。なかなか、解き放つのには、エイッヤーと思い切ることが大切なのです。

夏が近づいてきてカラダが自由になってくると、心の方も解放してゆけよ!といわれているような気がしてきますね。

もちろん、迷うことなく突き進められていれば、いうこと無しです。
「ありがとう…」と素直に感謝を解き放ってごらんなさい。

そして、今ここに立ち止まり、内省してみることもお忘れなきよう。


ひらめき


おふろでフーッと息をついたとき。無心で歩いているとき。電車の中でつり革にぶら下がり夕日を眺めているときなど。心が解放している瞬間に、たぶんこうだろうという仮説や最高のアイデアなどが降りてきた経験はありませんか?

いわゆる、“ひらめき”と呼ばれるやつです。

私の周りには、アイデアマン的な人が数名います。悔しいぐらいオモシロアイデアを連発できる人たちです。会議では素晴らしい切り口で発言をし、話をしていても興味をそそる視点で話題をかっさらっていったり。noterさんの中でも、悔しいぐらいに他の人がまったく気づけないところをうまーく表現されている人に出会ったりすると、ホントに悔しくなります…

なんで、そんなに、“ひらめける”の?と質問したところで、答えも“ひらめき”に満ちた回答が返ってきそうなので聞く気にはなれないのですが…

解放されているだけでは、降りてこないですよね…?

私なりの解答は、若い頃に先輩から、教えてもらった「3カン」というものです。

その人は、会社が嫌いで、ほとんど社内では会えず、その日もお客さんとの打ち合わせの後、仕事をサボって連れて行かれた喫茶店で、アイスコーヒーを注文し、一息入れているときに聞いた話です。

「いいかー、よく聴け、クリエイティブの奥義だぞ。」そして、勿体ぶって下手くそな文字でノートに書き出された3文字です。

観→感→勘

これだ…!と得意げな表情で説明をはじめました。

観。まず、日々できるだけ多くの情報に触れろと、なるべく現場に行けと…感。そして、自分の身体で感じろ…良い悪いは自分で決めろ…
勘。そして、あーだこーだやった後には手放せ…
一晩寝かせて、次の日には、最高のアイデアが降りてくる!

実際には、自分が会社にいない理由も含め、とても長い話だったのですが簡単にまとめると以上のようなものでした。

たしかに、学校や会社の中だけでは
“ひらめき”は降りてきそうもありませんね…

あなたは、どうでしょうか?
これで“ひらめける”感じがしてきましたか?

人生の“ひらめき”も。多くのチャレンジのしてさまざまな経験の中でいろいろな状況を観て、もやもやや理想を感じ取った後、それを一旦手放すことができ、与えられるのでしょう。

じっくりと熟成させるためには、時間が必要です。無理矢理に考え続けるのではなく、他に意識を向けて忘れたりリラックスした時間を過ごすことで、大いなるもののチカラや潜在意識が発動して、自然と“ひらめき”が与えられるのでしょうね。時には何年もかかるかもしれませんね…

このプロセスを通じて得られる“ひらめき”は、一瞬の出来事なんです。でも背後には、日々の観察と感じる努力があってのことなのです。単に記憶にとどめるのではなく、ノートなどに書き出し俯瞰すること。そして、一旦は忘れてしまうような繰りかえしから、より豊かな“ひらめき”が与えられるのでしょう。

“ひらめき”は、特別な人の特別な瞬間にだけ訪れるものではなく、日常の積み重ねの中で与えられるのでしょう。だからこそ、決めつけではなく、日々の生活や気持ちを丁寧に観察し、感じ取り、その中から生き方のアイデアを探ることが、重要だと感じるのです。

ぜひ、「観→感→勘」のプロセスを取り入れてみてください。
きっと、今まで気づかなかった“ひらめき”が、
あなたにも与えられるのでしょう。



2024年6月八重咲きのドクダミ


茫とした記憶

そもそもですが、自分を体験するためにここに生まれ落ちたのであれば、自分の持ち味とか自分らしさとかを、しっかりと感じられるようにはなれないものなのでしょうか?そうすれば余計な苦労をしなくてすむのに…

あなたが感じていることは、大いなるものもあなたを通して感じているのです。という感覚をもってくださいね。ということのようです。

大いなるものは、あなたを含んでいるし、あなたも、大いなるものを含んでいるという再帰的な入れ子構造の考え方。解りにくいところですが非常に重要なところですね。

自分も自然の一員のように、自然の呼吸、波長を合わせてゆくことによって、自然と一体化してゆく感覚を呼び覚まし。大いなるみえない存在を感覚としてとらえてゆく感性を学んでゆくとでもいえばいいのでしょうか。

「自分が」ではなく、「大いなるものが」が主体となれるように成長せよと促されているのですね。そのような、本来もっている記憶を取り戻してゆくことが求められているのでしょう。

あなたは、一瞬一瞬に自分を表現し、
自分自身を体験しつづけています。

同時に、大いなるものも、
あなたを通じて大いなるものを体験しているのです。

その記憶を思い出してごらん、と去年より一回り大きくなった植物たちにいわれているような気がする季節ですね。これからも一歩一歩、大いなるものと調和しながら表現していくことが、あなたの使命です。そして、その道すがら小さな奇跡や歓喜を感じ取り、深く味わうことができますように…

感性を解放していきましょう。



シュタイナーさん
ありがとう

では、また


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