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あなたがいるから この世界はある

第20週 8月18日〜8月24日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、本来、人は自然から生まれ、自然に還ってゆくものと信じています。ですがその旅の途中。いったい、この地球上で何を考え、何をしているというのでしょうか?純粋なる“わたしの存在”の責任を感じるべく、自然の中に自分を映していけよ!と念を押されているような感じです。

では、読み解いてまいりましょう。

  

T. ZWANZIGSTE WOCHE (18. AUGUST – 24. AUGUST[1912]).

20.
So fühl‘ ich erst mein Sein;
Das fern vom Welten Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem Grunde
An sich sich selbst ertöten müsste.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912



  授かりのころ、はじめて「わたしの存在」を感じる;
  大いなるものから遠く離れてゆけば
  その感覚は消散する
  個我の基盤の上にのみ築こうとすれば
  自らを殺すことになるであろう
 


“わたし”という存在

あなたは、いつから、“あなた”なのでしょうか?

乳児は生後12か月頃までは、鏡に映った自分の姿を自分とは認識しませんが、18か月頃からは鏡に映った自分に対して反応するようになります。このころから、幼児は自分を他の物体や人と区別し、自分が独立した存在であると認識し始めるそうです。

自我意識は、脳の前頭前野の発達に強く関連しています。前頭前野は、自己認識や社会的行動、他者との関係性を理解する能力に重要な役割を果たします。この部分の発達が進むことで、幼児は自己と他者を区別できるようになるそうです。

そのあと、幼児は他者の視点や感情を理解し始めることで、自分が他者とは異なる存在であると感じるようになるのです。これにより、“わたし”という概念が徐々に形成されてゆき、自分と他者を区別し、自分自身を他者と異なる存在として認識し始めます。

“鏡映像認識(ミラーテスト)”という実験があるそうです。このテストは、幼児の額に小さなマークをつけ、鏡の前に立たせます。18か月から24か月頃の幼児は、鏡に映った自分の姿を見て、そのマークに気づき、実際の自分の顔に手を伸ばして触れようとします。これは、幼児が「鏡に映った自分」と「実際の自分」を同一視し、自分が独立した存在であることを理解し始めたことが示されているのです。

いうなれば、2歳ぐらいで、あなたは自然と一体化していた自分から切り離され。あなたは、“あなた”になり。その後は、さまざまな関係性の中から個我の部分を着々と成長させてきたのですね。

シュタイナー教育では、動物、植物、鉱物などの自然物の学びをとおして自分とは何かを知っていきます。大いなるもののおかげで、“あなたがいる”ということと、“あなたがいるからこの世界は成り立っている”ということを同時に学んでゆくわけです。知識ではなく体験として…素晴らしいですよね。

この教育を受けていない、あなたも、
“シュタイナーのこよみ”を実践されて自然観察に長けてくると。

あなたを鏡に映すように外界を観られるようになり、
自然の一部である“わたしの存在”を感じられるようになるのです。
今からでも遅くはありません!
是非、トライしてみてください。

そして、そのときに自我との距離をいかに保ってゆけばよいのか
というのが、ここ最近のテーマのように感じます。



搾取する自己中心的なわたし

一時季。夏の盛りになると、暑すぎたり、ゲリラ豪雨や洪水の被害などから、地球温暖化の話題に事欠くことがありませんでした。気のせいか最近はあまり話題に上がらなくなったような気がします。ここ数年で、買い物袋がマイバッグになり、ペットボトルがリサイクルされるようになって状況に変化はでているのでしょうか?

正義というコトバを耳にすると、つい正義の味方、正義と悪という敵対関係が頭に浮かびますが、英語で“justice”ときくと公正とか公平とかバランスを整えるような意味合いがあるそうです。

“気候正義(Climate justice)”というコトバがあります。地域や世代などの格差を背景に、気候危機による影響は、加害者と被害者が存在する国際的な人権問題である。すぐにでも温暖化を止め、この不正義を正さなければならない。というのが気候正義です。

先進国(北側)に暮らす人々が化石燃料を大量消費してきたことで、地球温暖化が進み気候危機がもたらされています。でも、異常気象や自然災害で影響をダイレクトに受けるのは、化石燃料の恩恵をそれほど受けていない途上国(南側)の人たちや、この問題にまったく責任がない将来世代の子孫たちなのです。

気候危機を引き起こしている側が、地球温暖化対策への責任を先頭に立って果たし。被害を受けている側や、これから影響を受けるであろう将来世代の権利を保護しながら、地球温暖化を止めることが求められているのです。

そして、今すぐに問題をどう解決すべきか?
実は気づいていないだけで
本質的に責任を取るように!迫られているのですよ。



その解決策のひとつとして、非常に話題となったのが
『人新世の「資本論」』という本なのです。

斎藤幸平さんが提唱した“脱成長コミュニズム”は、資本主義の限界と環境問題への対応を考える上で、重要な視点を与えてくれました。彼の主張は、成長を前提とした経済モデルはもう“持続不可能”である。これに代わる社会構造として、生産と消費を抑制し、生産手段を民主的に管理する“脱成長”と“コミュニズム”を結びつけた、新しいビジョンが必要であるとしています。

脱成長コミュニズムの最大の魅力は、自然環境の持続可能性を中心に据えている点です。経済成長が地球の資源を枯渇させ、生態系を破壊しているのです。彼の提案するモデルでは、無限の経済成長を追求するのではなく、資源を限りあるものとして扱い、経済による社会発展の思考から人間の幸福を追求する社会に進化することを提案しています。

そのためには、社会システムのアップデートが求められるのです。資本主義経済はしばしば富の集中と格差を拡大させてきましたが、脱成長コミュニズムでは資源と富の公平な分配が求められます。超富裕層1%が世界資産の4割を占めるというゆがみを矯正し、生産の民主化や資源の共同管理を通じて、社会的な平等の実現を目指すべきといいます。

これにより、現在の経済システムがもたらす不平等や貧困が是正され、社会の安定が図られ、環境の持続可能性が回復できるのだと主張しているのです。

そして、これらは、知らず知らずのうちに取り込まれている、消費社会からの脱却を意味します。無駄な消費や過剰生産が環境に与える負荷を軽減し、人々が真に必要とするものに焦点を当てることで、精神的な豊かさを追求する社会が構築されるビジョンなのです。

しかし、理屈はわかった。
本当にそのようなことが実現可能なのでしょうか?
という疑問がきこえてきそうですね。

脱成長を実現するために、経済成長を前提とした現代のシステムが根本から変革されたとして成長が止まれば、雇用機会の減少や経済的な停滞が生じます。経済が低迷し縮小に陥ることで、貧困や社会不安が拡大するのではないか?

現在のグローバル経済の中で、国家間の競争や経済的利益を放棄するなんてできはしない。実際にこのモデルを導入するために国家間の政治的合意をとるなんて不可能だ。戦争が止まない世界でどうやって実現するんだ!

さらに、成長を止めることで、技術の進歩が抑制されてしまうのではないか? それで医療、エネルギー、通信などの社会インフラの進化を遅らせてよいのか?結果として、人々の生活の質が低くなってしまうのではないか?

結局は、夢物語か…

斎藤さんは。本の最後で、そうしたあなたの気持ちを上げるために
“3.5%の人が本気で立ち上がれば社会を変えられる!”
という研究を紹介しています。

未来は、本書を読んだあなたが、
3.5%のひとりとして加わる決断をするかどうかにかかっている。

といっています。
エネルギー消費を抑えるために家庭でできること。ということも大切ですが、それだけではなく、社会システムや社会全体の意識を変えてゆくために、あなたができることが何か?それが問われているのだと思います。



自己中心的な個我の上に築かれた社会をいつまで続けるつもりか?

それは、あなたの思考や生き方が、大いに関わってくると思います。
感謝の気持ちや畏敬の念を常に持ち続け、
それらを無視するかのような物事に坑がう姿勢を、
持ち続けたいとは、思いませんか?




2024年8月 百日紅


気候危機の話をしていると

「人類など、いなくなってしまえば、いいのに…」と
ついつい思ってしまいますよね…。

本当に、ろくなもんではないですね…。

でも

シュタイナーは、自然科学者の「人間なしでも鉱物、動物、植物は進化するだろう」という考えに対し、「それは間違っている」といっています。「もし人間がいなかったら地球全体の進化はなかった」とまでいいきっています。

今週のメッセージからも
大いなるものと一体にならなければ
それは、自分自身を消し去るのと同等である

と伝えてきてきます。

自然がなければ、あなたが生きてゆけないことは自明のことですが
さらに、“あなたがいなければ、自然はどうなるのか?”
という問いも、投げかけられているように感じます。

どうでしょうか?

自然側の視点からみれば、人間など存在しなくても、自然そのものは存続し続けると考えられます。なぜなら、自然は人類が現れるはるか以前から存在していて、人間がいなくても自然そのものが消滅するとは考えられません。

きっとフィジカルには、生態系が再調整され、他の種が進化し、新しいバランスが生まれるのでしょう。人間の影響がなくなることで、多くの生物や環境が回復し、美しい多様性が増す可能性すらあるのではないでしょうか。

しかし、みえない存在としての人間の視点からみると、ここで初めて、人間は自然のために存在するかも?という見立てが可能になります。この観点では、“あなた”が自然を理解し、その中で意味や価値をみいだすことこそが鍵となります。しかし、人間が消滅すれば、同時にこの意味や価値は消失することになってしまうのです。

物質的な自然は人間の存在とは独立したものです。人間がいなければそのままの状態で存在し続け、人間性の不在は、自然に対する意識や意味、価値、美などを消散させているのでしょう。

しかし、“あなた”という観察者がいなくても、そもそも、その意味や価値は、水に融けた絵の具の粒子のように内包されていたのです。

そして、大いなるものの空間は、人間なしでもエネルギーとして在り続け、その意味や価値は、“あなた”という観察者が現れるたびに出現しているのだという見方もできるのではないでしょうか?

ですから、自然も“あなた”がいなければ存在できないのです…。




何かハードな問いですね…

あなたの日常生活で自然とのつながりを感じる瞬間にでも
考察してみてくださいませ!


先生は、深く考える機会を与えてくれているわけです。



シュタイナーさん
ありがとう

では、また


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