春はあけぼの 感性をほどく
第8週 5月26日〜6月1日の記憶。 それを探る試みです。
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。
今週は、春ですからボーッとすることは素晴らしいですよね!
そのとき、あなたの感性をフラットな状態に整えてゆくヒントがかくれています。
では、読み解いてまいりましょう。
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自然の鼓動によって
感性が解放されてゆく、
それは思考を
焦点の定まらないものに変容させる。
大いなるものと
心とをひとつにしたいのなら
潜在意識にダイブするために
感覚と音を消し去れ
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「ボーッ」とみてごらん
公園での瞑想体験会に参加しました。
目的は、早朝の公園の気持ちよさを味わいたいから、というのは大嘘。冷やかし半分で参加している風を装いながら、日々の瞑想を深めたいなと虎視眈々と参加したのでした。
直射日光が当たらずに、気持ちよさそうな木蔭をさがし、先生を中心にして、地べたに腰を下ろしました。簡単な説明を聴いた後、じゃあ始めましょうと、先生がキリっと胡座をかいて座りました。
いやーさすが!先生。座り方が格好いいじゃないですかー。どのような世界でも極めている人は美しいなぁなどと、みとれてしまいました。
さて、自分も真似して座るも、足が短くて胡座も変です。なんか背筋も曲がっているなぁと思いながら、それでも目一杯のよい姿勢で座っていると…。
自然体で、力は抜いてくださいね!とのアドバイス。
そして、頭はそのままで、視線は1〜2メートルぐらい先の地面をみてくださいね。とのこと。
それでは、始めます。
あれ、先生、眼は開けっぱなしで大丈夫なのですか?と質問しようとした瞬間。普段の生活でもマインドフルな状態でいられるように、眼を開けてやるスタイルなのですという説明が!
でも、1〜2メートルぐらい先をみようとすると、まぶたが落ちてきて、半分つぶったような状態になります。何かをみているというより、ただ、眼が開いている状態になるのです。それは、試したことのない初めての体験でした。
座禅をするには“半眼”がよいとされているようです。開けているでもなく閉じているわけでもなく、意識が内と外に同時に開かれてゆく感覚とでもいうのでしょうか。ボーッとみることによって、全体感や気を把握することが可能なのですね。
そして、自分を中心とした世界から、他者や大いなるものの視点を感じとることができるのかもしれません。
春というか、もう初夏のような気温になってきています、焦点を定めず「ボーッ」とした視点で世界を観察してみると、自然界のつながりを色濃く感じるられるでしょう。
光・湿気・音・色・形…すべてがそこに完成されているのだ
そして、“あなた”を含めて、みな、ボーッとしているが
すべてが脈打ち完成された循環の中にいるのですよ!
ということなのではないでしょうかね?
デッサンをするときにも、最初に“半眼”で全体感をつかみながら描き出すのがセオリーになっていますよね。
いろいろな場面で“半眼”って使えそうではないですか?
「ボーッ」とみる。を試してみてくださいね。
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感性の解放
「ボーッ」とみるのも感性の解放のひとつだと思うのですが…
そもそもですが、感性が解放されるとは、どのようなことなのでしょうか?
まず、感覚や感情を直感的に受け入れられる。
美しさへのセンサーが敏感になる。
素直に感動や歓びを味わえる。
日頃、見落としていたモノゴトを鮮明に感じとれ、まるで新たなドアが開かれるかのごとき体験をしたり。自然の表象に深い感情や意志が響き合っていることを感じ、心に響く瞬間に出会えたり。
そして、色彩や形状、言葉、音…などのさまざまな表現手法を駆使して情感を伝え合うことができ、表現を通じてつながりが深まり、豊かさを手に入れられる。それは、思考を的確に表現できているということ。
たとえば、感性が解放された画家は自然に感動し素晴らしい絵を描いた。それを、観た人が自分の表現でその素晴らしさを伝え。それを知った人が自然の美への造詣が深まり。といった好循環。
どうでしょう、感性が解放されていると
深い瞑想などしなくても、直観を受け入れることで
何か幸せになれそうな気がしてきませんか?
たとえば、散歩するとき、料理にするとき、服を選ぶというちょっとした選択でも、さまざまな日常の瞬間での感性を解放させるチャンスがあると思うんです。
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感覚と音を消し去れ
また、何かの作業に没頭することも感性が解放されることにつながりますよね。掃除でも、制作でも、勉強などでもフロー状態にはいり。時が経つのを忘れるほど没頭することで、自分と宇宙が一体化したかのごとき感覚を味わい、その痕跡を眺めることで心に深い歓喜や満足感をえられることってありませんか?
作業以外でも、日常生活においても何かに夢中になること。食事をするとき、美しい風景を見るとき、会議で対話に集中しているとき、音楽やダンスに身を委ねるているとき。などでも感性が解放され些細な瞬間にも歓びを見出せますよね。
感性が解放される歓びとはどのような感覚か?“歓喜”を受け入れたり、身を委ねたりする感覚っていったいどのようなものなのでしょうか?こうような状態を言い表すとき、なんとなくですが、「感覚と音を消し去れ− そのとき何が聴こえるか」のような一つの公案が手がかりになるかもしれないなと思うのです。
音楽を聴くときにも、コンサートホールの一瞬の静寂を愛している人も多いのではないでしょうか?指揮者がタクトを振上げた瞬間や、音と音の間に何が潜んでいるのか?そこに美を感じませんか?
抽象絵画などでも明確な意味やメッセージが存在しないものもありますが、それらを観賞するとき、自分の感性が解放されていることで、何かがスーッと深いところに落ちてゆく感覚など経験したことはありませんか?
このような“間”が、生きる上での本質的な意味のようにも思えてきます。
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シュタイナーはたぶん、
感性の体験を描写しているのだろうなと思います。
春はあけぼの
やうやうしろくなりゆく山やまぎは
思考の力を絞らせ
夢の迷い
夢うつつへと
あなたを導く
思考の無意味性、でも思考してしまう生き物としての“あなた”
“あなた”が感性として感じているものからも
解放されるべきなのでしょうね。
*
シュタイナーさん
ありがとう
では、また
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