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ポルトガルの中の「ニッポン」を探して(日本のさまざまなモノ・コトはここから始まりました)。

2023年は鉄砲伝来から480年!

2023年はポルトガルから鹿児島県種子島に鉄砲が伝来してから、ちょうど480年の節目の年でした。※この記事は、自分が取材し、JTB会員誌『ノジュール』で掲載となった記事の一部を再編集&追記したものです。

日本におけるヨーロッパとの最初の出会いは、そうポルトガル。ちなみに両国の主な交流の歴史は以下の通りです。

  • 1543年 ポルトガル人が種子島に漂着、鉄砲伝来

  • 1549年 フランシスコ・ザビエルらイエズス会宣教師が日本の鹿児島に到着、キリスト教布教活動を開始

  • 1582~86年 天正遣欧少年使節

  • 1639年 ポルトガル船の来航が禁じられる(鎖国)

  • 1899年 ヴェンセスラウ・デ・モラエスが神戸領事として正式に日本に移住(後年文筆家として活躍)

  • 1993年 日ポルトガル交流450周年。高円宮同妃両殿下の公式御訪問

  • 1999年 フランシスコ・ザビエル来日450周年記念

  • 2003年 日ポルトガル交流460周年。ポルトガル各地において日本人形展、政治経済に関する講演会、車人形ワークショップ、音楽交流フェスティバルなどが行われた。

  • 2004年 ヴェンセスラウ・デ・モラエス生誕150周年。日本においては講演会、ポスター展などが行われた

  • 2010年 日本ポルトガル修好150周年

鉄砲伝来の年号である1543年を、「以後予算(1543)がなくなった(鉄砲購入には多額の予算が必要となることから)」と覚えた人も多いはず。その鉄砲を伝えた国もポルトガル。1549年に日本で布教活動が始まったキリスト教も、ポルトガルの宣教師であるフランシスコ・サビエルによって我が国にもたらされたものでした。

ポルトガルと日本の長く深い関係

ポルトガルと日本の関係は長く、深いものがあります。「南蛮貿易」という言葉を聞いたことはないでしょうか。ポルトガル人やスペイン人との貿易を指す言葉で、彼らは鉄砲や火薬、中国の生糸などを日本にもたらしました。特に武器となる鉄砲などは、それまでの歩兵や騎馬による戦のあり方はもちろん、城の構造をも一変させたともいわれています。

歴史にも色濃く残っています。交流の歴史でよく知られている一つが、天正遣欧少年使節。九州のキリシタン大名である、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信がローマへ派遣した4人の少年を中心とした使節団で、彼らは長崎から出港、マカオ、ゴアを経由し、1538年8月リスボンに上陸。スペインを経由し、ローマ教皇グレゴリオ13世に謁見しました。

日本が初めて出会った欧州こそ、ポルトガル。それは現在、普段何気なく使う言葉にも息づいています。たとえばボタン、パン、タバコなどは、それぞれポルトガル語のbotão、pão 、tabacoが由来。京都のにある地名、先斗町(ぽんとちょう)も、ポルトガル語のponta(先)、ponte(橋)などからきたとも聞きました。

食に関しても、日本人とポルトガルの共通項はいくつもあります。たとえば米。多くのレストランで、さまざまな米料理を食することができるのも特徴。魚も同様で、米とともに、ヨーロッパの中で一人当たり最大の消費量を誇る国として知られ、日本人にとって旅がしやすい国と言われる所以です。

テージョ川沿いに立つ発見のモニュメント。ヴァスコ・ダ・ガマなど大航海時代の偉人が並ぶ。


魚介のリゾット、アフォシュ・デ・マリスコ。

日本の作家を惹きつけるポルトガルの魅力

ポルトガルは日本の作家たちにも多大な影響を与えています。たとえば、香港からヨーロッパを目指し陸路で旅した作家・沢木耕太郎の作品『深夜特急』では、作中、筆者が帰国を決意する場所として、ポルトガルの南部にあるサグレスという街が印象的に描かれています(久しぶりに読んでハッとしました。ずっとロカ岬だと思っていた。。。)。

宮本輝の『ここに地終わり海始まる』は、そのタイトル自体、興味深いものがあります。これはユーラシア大陸最西端として知られるロカ岬にある碑に刻まれた言葉。原文は、ポルトガルの詩人・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩201節から引用した一節。宮本の本作中において、重要なテーマともなっています。

みなさん大好きな司馬遼太郎も。『街道をゆく 南蛮のみちⅡ』ではポルトガルが登場しています。スペインからポルトガルへ旅した紀行で、取材時期は1982年。ポルトガルではサン・ジョルジェ城やジェロニモス修道院、ベレンの塔など、大航海時代の繁栄のあとを巡っています。

そしてポルトガルといえば作家・檀一雄です。「最期の無頼派」と形容されることも多い、昭和を代表する文豪の一人。代表作は夫人・律子の没後を描いた『リツ子 その愛』や『リツ子 その死』、『火宅の人』など枚挙にいとまがありません。

ご存じの方も多いかもしれませんが、檀一雄はポルトガルに暮らした時期があります。場所は首都リスボンの郊外にあるサンタ・クルス。時は1970年11月から1972年2月までの間。サンタ・クルスは、当時は小さな漁村だったようですが、現在はリゾートの様相を呈しています。週末ともなれば、国内はもちろん、欧州各国からの多くの観光客が集います。

ちなみに檀一雄の足跡は今もそこかしこに。街の中には、檀一雄の名前が付いた通りがあったり、彼の滞在や功績を讃えた石碑が海辺に建てられていたり。作家がいかに地域で愛されていたかがわかります。

北緯38度47分、西経9度30分に位置するヨーロッパの最西端ロカ岬。眼前には雄大な大西洋が広がる。
サンタ・クルスの海岸線。数キロにわたり、白砂のビーチが続く。


檀一雄通り。海辺には檀一雄の碑があり、「落日を 拾いに行かむ 海の果」 の詩が刻まれている。

■おすすめレストラン「ボカ・サンタ」
サンク・クルスの海辺を見下ろす高台にある。檀一雄の碑のすぐそばにあるレストランで、海を望む絶好のロケーションにあり、とくにテラス席からの眺めは秀逸。観光地にありながら、ローカルっ子にも愛される海鮮料理の名店。ちなみにオーナーは、檀一雄の碑の除幕式に立ち会ったと話してくれました。


日本に最初にもたらされたのはポルトガル産の赤ワインだった!?

日本に最初にもたらされたワインは、ポルトガル産の赤ワインであったという説があります。キリスト教とともに宣教師らが日本に持ち込んだとされるそれは、当時は「チンタ酒」と呼ばれたようで、その名前はポルトガルで赤ワインを指す「ティント」に由来するのだとか。

そんなポルトガルのワインは、近年、世界中から注目を集め、世界的なワインジャーナリストも、ポルトガルのワインに高い評価を付けています。理由の一つは固有種の多さ。

ポルトガルには古くから根付いてきた在来品種が多く、その数は世界屈指の約300種。ポルトガルの気候や土壌も魅力的で、東西160km、南北560kmという小さな国土ながら、気温や降水量が各地で異なり、土壌タイプもさまざま。結果、各地で多彩なワインが生み出されるというわけです。

ポルトガルではワインが本当によく飲まれていると感じます。一人当たりのワイン消費量が世界一だという調査もあるそうです。白や赤、ロゼ、スパーリングはもちろん、「緑のワイン」と形容されることも多い、ヴィーニョ・ベルデという微発泡のワインも一般的。

そしてワインをテーマに旅する「ワインツーリズム」の分野に、ポルトガルは国策として力を入れています。政府が6000万ユーロを投資し、関連施設のインフラの整備も行っています。地域の活性化を主軸に、リスボン・ポルトの観光集中を回避する狙いがあるようですが、この話はまたどこかで。

国内の主要産地は10を超え、ワイナリーも各地に点在。ちなみに前述の檀一雄は、ダン地方のワインをとりわけ愛していました(名前が一緒ということもあるのだろうが、純粋に味を気に入っていたそうです)。

首都リスボンからでも車で1時間も走れば、たくさんのワイナリーに出会えるので、ポルトガル旅行のエクスカーションの一つとして、ワイナリー見学もぜひ押さえておきたいところです。

ポルトガルではいたるところに葡萄畑が広がっている。
「アデガ・マイン」に併設されたレストラン。洗練された料理が人気。

■おすすめワイナリー「アデガ・マイン」
リスボンの北40キロに位置するワイナリー。2010年、ポルトガルの特産品として有名なバカリャウ(鱈の干物)の一大ブランドを展開するアルヴェス家が新設。ポルトガルを代表する醸造家らによって、伝統とモダンを融合したワインづくりが行われている。建築家ペドロ・マテウスによるシンプルモダンな醸造施設も一見の価値あり。

■おすすめワイナリー「キンタ・ド・モンテ・ドウロ」
ミシュランの星付きレストランを多数運営する料理人ホセ・ベント・ドス・サントスがオーナーを務めるワイナリー。オーガニック栽培にも力を入れているのも特徴。海風を受けて育ったブドウを用いたワインは、風味豊かな味わい。




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