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【コラム】貧困は感性をも殺す〜可処分所得と心の豊かさについて〜【卓上人語】

先日、可処分所得(食住に使えるおカネ以外)が今までほぼなく、今もないので「アートにカネを出す」ということがそもそも発想としてなかったという話をした。

実際問題そういうことで、家賃を払う、生きるだけ食う、社会からはぐれない程度の交際をする、すべてあまりにもバカらしくて朝から曇った脳みそになりたくて酒を飲む、これで月に入って来るおカネは全部。ヘタしたら足りなくって借金する、まではいかなくてよかったね、くらいな。そもそもどこが貸してくれるというんだ。返してもらえるアテ皆無な不良債権。

ここに、灰色の壁だから赤い花をいけましょう、という発想など出て来るはずもないのだ。
誰かの訪問でもあるのならまた別で、それなりに着飾るように掃除もし、花の一輪、絵のひと額でも飾るのだろうが、残念ながらここ数年こんなところにこようという人はそういない。

そのため部屋はさらに殺風景に、という負の巡回を始めるわけだが、そうならないために一つ思いついたことがある。
「自分で作ってみる」ことだ。
自分一人の部屋の話。自分がどう満足するかであり、どう満足するかは自分が一番わかっているはずだ。

早速アクリル絵の具でも買ってきて、何か描いてみよう。世界堂にでもいけばいいのかな。

ここで、凄まじいことに気づく。
描きたいものなどないし、飾りたいものなどなかった、という事実にだ。

あまりにも、あまりにも「そういうものから目を背けて」生きてきた代償なのか。本当に、正直なにをみても心が動かされることはないし、「はぁ、そうですか」の一言しか出ない。

あまりにも悲しすぎる。貧困は感性をも殺すのだ。

死んだ感覚は仕方がない。これから、機会があればできるだけ、あらゆる意味での「表現」に触れ、それが憎悪や反対意見でもいいと思う。なにも感じないようりは。とにかく「アート」「表現」に触れて、なんらかのことを言っていこうと思った。

なお、余談だがアートや芸術表現について人に問われると、その成り立ちやら作者との関係やらで、それっぽいことを語れてしまう。これもよろしくない。藝大1年生になったつもりでまっさらに、いろいろ吸収していきたいし、とにかく自分の部屋の壁に飾る絵なりインスタレーションなりなんなりなんでもいいが、それを「これは!」と思った人のを購入するのか、自分で作るのかは別にして早く決めたい。

そんな今日は1,010文字。長ったらしく文章を書く練習もしなければ、と思った。

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