【最後のとき(The Last Time)】新しい生命を授かったプレインズウォーカーたちへ

こんにちは。「ひらこ」と申します。

マジック・ザ・ギャザリング(以下MTG)が趣味な2児の父です。

子どもを授かって3年と少し経つのですが、育児が辛いと思ったことは一度や二度ではありません。

育児は会社の売上げに貢献しませんからね、それに他人の痛みなんて分からないものです。

で、今回は「育児つれぇ」と愚痴をこぼしたいわけじゃなくて、「最後のとき(The Last Time)」という詩の話をしたいと思います。

「最後のとき」という語感は、MTGを嗜む方には「いつか誰かが私を倒すだろう。しかしそれは今日ではないし、お前でもない」というフレーバーテキストが有名な《最後の言葉》でしっくりくるんじゃないかなと思います。

「最後のとき」には何が書かれているのか、自分はそれを読んでどう感じたかを綴ります。

◆最後のとき(The Last Time)

書いた人は不明、原文となるような画像がSNSで出回っているらしく、出典があるのかバズネタなのか私にはわからないものです。

原文と思しき画像は以下の通り。

内容を超要約すると「子供の「最後」はいつになるか分からないぞ」というものです。

確かに私は、子どもたちが夜泣きせずに寝始めたのか具体的な年月日を忘れてしまいました。

寝る前の儀式を最後にした日も分かりません。いつの間にかしなくても寝るようになり「少しだけ育児が楽になった」と感じる程度でした。

離乳食のお粥が私たちと同じ硬さのご飯になったのは、いつだったのか。

ミルクを毎日あげなくなったのはいつだったのか。

長女がワンワン・ニャーニャーと言わなくなったのはいつだったのか。

次男のハイハイはいつ卒業したのか。

最後がいつだったのか、もう覚えていませんし、それが帰ってくることもありません。どんどん新しいことを覚えて育っていくのです。

これから先、最後にオムツをした日、ショッピングモールのキャラクターカートに最後に乗った日、ランドセルを最後に背負った日…

そのような「最後のとき」を次々に迎えて、子どもたちは成長し、私たちは老いていくのです。

◆「最後のとき」は事実でしかない、しかし強い思い出として残っている。

「最後のとき」に関するnoteやブログは「育児に疲れた」などで検索すると良く出てきます。事実、私もそのワードで検索したのですが…。

「最後のとき」を読んだファーストインプレッションは「せやな」でした。

元々、育児に疲れたときに「育児疲れたけど、こいつらと過ごす時間ってそんなに多くないよな」みたいなことをぼやいていました。そのボヤキを具体的にしてくれた印象を受けました。

そのため、「最後のとき」には事実の陳列としか受け止めていません。

しかし、思い出はたくさん残っています。

一緒に妻の夜勤が終わるのを待っていたこと、全然寝てくれなくて近所のコンビニまで散歩に行ったこと、寝かしつけながら東京オリンピックのハイライトを見ていたこと、姉弟仲良くフライドポテトを食べていたこと、家族との記念写真…まだあります。1万枚の写真と共に。

いつしなくなったのか、これは思い出すことができません。しかし、子どもたちがしていたことは確かに覚えています。

いつか来る「最後のとき」を覚えておくために、私は今を生きていくことにしましょう。

◆最後に:MTGとどのように向き合うか

このnoteのメインはMTGなので、最後はMTGについて少し。

MTGは独立した、わたし個人の趣味です。妻も子どもも遊びません。

では「子どもと関われぬMTGは無用の長物であり、すぐにでも売りに出すようなものか」という問いが生まれます。

だって、子どもとの思い出には関与しませんし、今後MTGに子どもが興味を覚えるかは分からないのですから。

しかし、「MTGは子どもとは無関係だから不要か」という問いに、YesともNoとも答えられないのも事実。

これから、じっくり考えることにします。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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