子をかわいいと思えなくなるとき
子が生まれてから、五ヶ月だ。
五ヶ月?五ヶ月ってほとんど一年の半分じゃないか。そんなボリュームの日々が、いつのまに、いったいどこへ消えていったのだろう?信じられない。
子はいつのまにか、一回りというか三回りくらいにどっしりと大きくなっている。
毎日見てるのにいつ大きくなったのかてんでわからない。どう考えても間違いなく日々ちょっとずつ伸び膨らんでいっているはずである。夜寝てる時にニョキニョキ伸びてる?
タイムラプス映像で見せてくれ。
タイトルに反するようだが、子をかわいいと思えなくなったときはない。
ない、のだが、めちゃくちゃ波はあった。正確には、子のかわいさをキャッチする「かわいさ感度」に波があった。
親になって、痛覚とかの感覚に新たに「かわいさ感度」というセンサーが加わったと思ってる。
子は常にかわいい。かわいいを発している。ただし発されているかわいさをどれだけ感知できるかは親のかわいさ感度コンディションによる。
つまり。親側が疲れ切って感度が鈍感になると、かわいさ感度の精度がカッスカスになる。「かわいい、かわいいはず、はずだけど…どうにかならんかね?」と白目をむく瞬間はめっちゃ、ありありに、あった。
今んとこ特にきつかったのは、生後一〜二ヶ月のあたりだろうか。
新生児に振り回される夜がつづいてた。
何をどうしても寝なくて、これでなんとか泣き止んで眠ってほしい、と切実な願いとともに与えたミルクを無情にも2回連続で吐き戻され、すでに限界に疲労困憊なのにさらなる追い討ち。脱力。吐き戻しって、そのあらゆる要素が、なんというか、ほんとうにメンタルにダメージをうけるのだ。空が白み始めてるのに気づく。夜も朝も境目なく「今日」が連続したまま、また次の一日が始まっている。頭はとうに働かない。ノー体力。
親の人権とは?労働基準法は?度外視されすぎでは?一周して笑えるし泣ける。
そんな夜。
そんな呆然としてる中、ミルクで汚れた子の、無表情の顔が暗闇に浮かび上がっていた。限界徒労感の中ではそのぽっかりとした目は不気味とすら思えて、どうしたらこの生き物が静まってくれるのかわからなくて、怖かった。感知できるかわいいを怖いが上回っていた。
そんなかわいさ感度がめっちゃ低空飛行してる瞬間はたくさん、たくさんあったのだ。
いっぽうで、かわいさ感度がバリバリ鋭敏になる瞬間もある。
産後ケア施設(子の世話などのサポートが得られる)を利用して、子を助産師さんに預かってもらって、休んだのち、授乳のために子と数時間ぶりに再会したとき。
驚愕した。子のかわいさに。それはもう、新鮮のぴちぴちに脳にガツーンときて輝きに目がくらんだ。「これが、わたしの、赤ちゃんですか!?」サイズ感も目つきも口も表情もめっちゃかわいくて刺激がすごい。変なホルモンがでてる気がする。脳神経がやられて、かわいいかわいいかわいいねえと勝手に口をつく。
心身の余裕が回復するとこんなにかわいさ感度が爆上がりするんだと驚いた。
だから同じ親と子の組み合わせでもめちゃくちゃかわいいと思えるときもめちゃくちゃかわいいと思えないときは両立するのだ。全然そうなのだ。
生まれたての赤ん坊は、抱っこマシンが5体は必要なレベルで手がかかると友達がいってた。振り返るとそれを一体や二体でこなしてたんだから、そら余裕もなくなってただろう。
そしてもうすぐ五ヶ月の現在。
ここにきて感じる子のかわいさがさらに覚醒しギアをあげネクストステージに突入している。オイオイまだかわいさの進化形態残してたのかよ…と圧倒されている。
少しだけ抱っこなどの親のコミットがなくても泣かずに1人で機嫌良くしていられる時間が発生するようになって、より平静な気持ちで子をじっくり眺めることができるようになった。結果かわいさ感度がポテンシャルをさらに発揮。新規かわいさフレイバーを濃厚に味わえている。
しかも感情も豊かになり、私をみると本当にうれしそうな笑顔を浮かべる。好きな人が自分を好きという、とろける気持ちを味わせてもらっている。抱き上げたときのしっとりとした重みすらかわいい。
子を持つルートに入った以上、こういった瞬間の積み重ねを、ある種、生きた醍醐味のひとつとして味わっておくに限ると思っている。なんか健康寿命が伸びる気すらしてくるし。
そう思うと、かわいさ感度は研ぎ澄ましておくにこしたことないだろう。でも、親の心身が疲れると、かわいさ感度は今もいつだって危機に晒される。
となると、必要なのは余裕だ。リソース配分を理解したうえで、余裕を意識的につくることがかわいさ感度を育てる。
ひいては、それが自分の健康寿命をのばす。
それを意識して、五ヶ月目もひきつづき努めてまいります。
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