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「私たちは」が主語になる、薄まっていく「わたし」の感覚

久々に1人でゆったり歩いて(3月から同棲し始めたので1人っきりの時間というのは案外なかったんだとこの時気づいた)、何となく電車に乗って、少し歩いて見つけた昔ながらの喫茶店に入って、「断片的なものの社会学」という本を開いた。

詳しくは省略するが、この本の中に、著者が幼少期に道端の石を拾っては、「そのかけがえのなさと無意味さに、いつまでも震えるほど感動していた」という一節があった。

あまりの感性の鋭さと豊かさに、嫉妬しそうになるくらい心が動かされた。

それは、私が久しく感じていなかった情動だった。

同棲を初めて、コロナで外出も減り、さらに商談期をオンラインで乗り越えるというあらゆる変化の中で、私自身は気づけていなかった。自分の感性が鈍っていることに。

パートナーと一緒に過ごすことはすごく安心感がある。それは外敵攻撃から2人で助け合えるというフィジカルなものでもあり、誰かの冷たい一言や、KPIとにらめっこする日々の心を優しく癒してくれるといったメンタル的なものでもある。

だから、基本的にはありがたいことなのだ。

でも、2人でいることで「薄まっていくわたし」というものもある。

それは1人で孤独に苛まれそうな日に感じる夜道のコンビニの安定的で無機質な光のありがたさかもしれないし、一人心置きなく寝て起きた休日の、降り注ぐ午後の太陽の温かさや安心感なのかもしれない。

いずれにせよ、そうやって「1人で」味わっていく、そういう類のものだ。

でもそういったものの中に、自分だけの研ぎ澄まされていく感覚というか、感性的なものが潜んでいたのかもしれない。そういった一瞬一瞬の「1人としての私」を味わい、愛でていく。そこで育まれていくもの。私にとってはそれが感性というものだった。

自分には何が心地良くて、何が嫌なのか。

何を美しいと感じ、何を醜いと思うのか。

今この瞬間、私はどうしたいのか。

そういった「私は」を主語にするあらゆる物事はどんどん「私たちは」という主語に変わっていき、それは「私は」なのか「私たちは」なのか分からなくなってくる

決してそれはパートナーのせいでも、私のせいでもなく、ただ2人で歩んでいくことにおいて、適応能力として必要なスキルなのかもしれない。そのおかげで私たちはびっくりするくらい穏やかで、しあわせと感じる日々が送れているのだから。

そう、こういう日常は、私が焦がれた「牧歌的な」日々だった。

でも気づかないうちに、私の感性はなんだか錆びていたようだ。

その決定打となたのが先日。

人生の岐路とも言える決断が最近あったのだけど、切れ味のいい判断がすぐ下せなかった。

「比較検討」といえば聞こえはいいけれど、(そしてそれは人によってはすごく大切なことだけど)私にとっては「自分の心地よさを自分で定義できない」ということを意味していた。

あらゆる意思決定において、私は今まで自分の感覚の赴くままに自由にさせてもらったし、その感覚の確かさに疑いがなかった。自分の意思決定を自分が一番肯定してあげて、信じてあげられる自信があった。

それは、例えE判定しか出ていなくても、「なんだか本番はいけると思う。受かる気がする。」と下げなかった第一志望の大学に受かったように。「絶対この会社がいいと思う」と退職12日前でも内定0で、その会社の内定を待っていた転職の時のように。

でも今回は違ったのだ。

あまりの切れ味の悪さに自分でも戸惑ったし、初めて自分を見失う感覚だった。

こんなに近くにいて(というか同一人物なのだけど)、こんなにいつも見ている自分自身が「わからない」なんて、そんなこと初めてで心底驚いた。

結論がないんだけど、そんな自分を記録しておきたくて。

2020年10月3日

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