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好きな人を、ただ、好きなように愛そうぜ。

人は一体、いつまで「男女の友情は成立するか否か」の論議を行うのだろう。

言うまでもないけれど、当然人それぞれの答えがある。
どちらにしても、実体験に基づくその人の「真実」として語られることが多い。ゆえに、強い言葉を使っての主張や否定が生まれやすい。

Twitterで「男女の友情」と調べれば、その様子が一目でわかる。

真実は人の数だけあるんですよ
『ミステリと言う勿れ』

とは、本当にその通りだ。

自分で見つけた答えを、信じることは大いに結構。それがあるから迷わずにいられるし、救われることだってたくさんあるだろう。

ただ、「どちらが正しいか」なんて主張のぶつけ合いを、無遠慮に公の場で繰り広げるのは、人の心を傷つけたり、追い詰める行為に思える。


女性に対して、他人が「早く結婚しなよ」「子どもはまだか?」と軽々しく問うのは相当な無礼に当たる、とタブー視される時代になったけれど

個人的に、二人で過ごしている男女に軽々しく「付き合ってるの?」と聞くことも、同じくらいの暴力性を孕んでいると思う。


***


私には、3歳から一緒に過ごしてきた異性の幼なじみがいる。

家から徒歩30秒の距離に住んでいて、幼稚園から一緒に登園していた。小学校の6年間も常に一緒にいたし、中学校に上がっても当たり前にそれが続くと思っていた。

けれど、入学してから1ヶ月も経たないうちに、私たちは「付き合ってる」と冷やかされるようになったのだ。同級生たちからも、登下校中に遭遇する先輩たちからも。

遠くから「お前らカップルだろ〜〜!」と叫ばれたり、私の教科書や生徒手帳が、幼なじみの机の中に突っ込まれている日もあった。


なんて面倒くさい社会なんだろう……と、心底うんざりしたことを、今でも鮮明に覚えている。


冷やかしのターゲットにされてから、私たちは何となく一緒に居ることを避けるようになった。「帰ろう」と教室まで迎えに行くこともなくなったし、わざわざ時間をずらして帰ったり、同じ道を歩いていても、距離を取ったり。

相変わらずお互いの家を行き来していたから、今でも関係は変わらず、疎遠になったわけではないけれど。

当時のことを思い出すと、未だに「うるさいなあ、ほっといてよ!!」と、納得できない中学時代の私が顔を出す。


***


この経験から、他者の関係に対して無遠慮に踏み入る言葉やコミュニケーションに過敏になり、嫌悪するようになった。

中学生のように、悪意ある冷やかしをする大人は少ないだろうけれど、男女の関係において「付き合ってるの?」という問いを投げるハードルは、依然として低いままのように感じている。


例えば、この間私の女友達がInstagramのストーリーに男友達とのツーショットを投稿したら、会ったこともないフォロワーさんから「彼氏ですか?」とDMが届いていた。

さらに、付き合っていることを否定すると「嘘だ〜」とか、「ぶっちゃけ意識したことはあるでしょ?」「一回くらいカラダの関係もったことあるでしょ?」なんて、とんでもない言葉が飛んでくることもある。


そもそも、「付き合ってるの?」という問いも
「男女の友情は成立するか否か」も

人は異性に恋愛感情を抱く

という前提のもとで、生まれる言葉だ。


問う人にとっては、あるいは語る人にとっては、異性愛が当たり前かもしれないけれど、個人の世界を一歩出ればそれは簡単に揺らぐ。


人を好きにならない人もいるし、
キスをしても、セックスをしてもお互いのなかで「友情関係」が成立していることもある。

自分の真実に基づいて、人間関係における答えを持っているのは大事なことだ。でも、自分が理解できないものを疑ったり、否定するのは──自覚の有無に関わらず──あまりに暴力的だと思う。


だからと言って、それを悪気なく行ってしまう人たちに悪態をつくこともまた、

「自分が理解できないものを否定するという逃げ」に等しい。

……これは、気を抜くと私もやりかねないので、本当に、自戒を込めて。


自分の真実は、自分のなかで大事にしたい。
それが誰かの居心地を悪くしてしまわないように、細心の注意を払いたい。

そして中学生の頃のように、もう屈したくない。


世界の皆さん、
好きな人を、ただ、好きなように愛そうぜ。




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