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「愛されている」という責任がある

あれはいつだったか……
たしか、22歳くらいの頃。ひどい豪雨に見舞われた初夏の夜、友達だと思っていた男性に、体の関係を求められた。お互いの家をよく行き来するような関係だったし、出会って1年くらい経っていたけれど、手を繋ぐこともなければ、お互いに恋愛を意識していると感じたこともなかった。よく飲みに行く、仲のいい友人。それ以上でも、以下でもない。

その夜だって魔がさしただけで、彼が私に恋愛としての好意を持っていたとは思えないし、ベッドの上に組み敷かれても「きゃあ!ドキドキする!」なんてことは1ミリもなくて。


「あーーーー、間違えたなぁ」と思いながら、65インチの液晶テレビに『500日のサマー』を映す薄暗い部屋で、彼の顔を冷静に見上げていた。


外は豪雨だし、終電はもうない。
恋愛映画を見ながらアルコールと何かに酔った彼は、地獄みたいな絵の中で私に合意を求める。

「いいよ」でも「嫌だ」でもなく
明白だったのは、友情関係の崩壊だけだった。

終わったなぁ。
この家に来ることは二度とないのだろうし、もう二度と、一緒にお酒を飲み交わすこともないんだろうな。

返事を求められてからの数秒間、超高速であらゆることを考えていた。

この状況って、断ったらどうなるんだろう?
彼の性格からして無理矢理ってことはないと思うけど、断ってその気まずい空気のまま始発までこの部屋の中にいるの?うわ〜〜、地獄。断ったらそのまま豪雨の外に出ていって、ファミレスかどこかで始発まで待つ?さっき傘壊れて捨ててきちゃったじゃん!ずぶ濡れになる……あ、傘借ればいいんじゃない?「体の関係とか無理ですけど傘だけ借りるね?」って。なにそれカオス?しかも借りたら返さなきゃいけないじゃん。ナシ!ってことは断る=この豪雨に打たれる確定。冷静にこの雨の中傘も無しに深夜3時にファミレス行くとか悲壮感やばくない?まあこんなことになると思わず家に行った自分の無能さを戒める時間として、受け止めるしかないか。


あ〜〜もう面倒くさいから
「いいよ」って言っちゃえば…?

人として嫌いじゃないし、いや、嫌いじゃなかったし。良いところもあるって知ってるしなぁ、触られて本当に無理って感じでもないし。まぁ、もう二度と会わないって前提になるけど、いや、してもしなくても終わりだけどさ。一応聞いてみようか?

うーん……こうなってる人に話通じないと思うけど、友達だったわけだし、とりあえず。


かくして、同意を求める問いに対して、私は問いで返すことにした。

「もう友達に戻れなくなるよ?」

「そう?」

「そう。私がそうするから、もう連絡も取らないし、会わない。」

「なんで?」

「逆にしてからも友達でいるってどういうこと?セフレになろうって言ってる?」

「いや、セフレとかじゃなくて……俺は、してもしなくても友達でいられると思うよ。変わんないよ。しても。」

うわぁ、最低なこと言ってるけど大丈夫そう?


そこまでか。そこまで私がどうでもいい存在だったことを暴露されて、シンプルに傷ついた。私は結構、大事に思ってたよ。友達として。欲求ひとつに振り回されて、崩れても良いなんて思えないくらいには、大事に思ってたよ。

まじで、友達として楽しく過ごしてきた時間の全てを返してくれ。

いっときの欲求と天秤にかけられた挙句に、あっけらかんと「別に良いでしょ」と言われた私の気持ちを想像しようとも思わないなら、私たちが交わしてきた言葉や、励まし合ったり慰め合ったりしてきた時間ってなんだったの。

もう全部が馬鹿馬鹿しくて、どうでもよくなってくる。

この状況で話をしても伝わるわけないし、こんな人に私の思いを伝える義理もない。外は大雨だし、もういろんなことを考えるのも面倒くさい。私が悪かったよね、うん。そんなこと言う人だと思わなかったし、浅はかだった私の自業自得じゃん?


──と、その場にあった全てを諦めて「いいよ」と手放しそうになった時、私に降りかかってきたのが、「愛されている」という責任だった。


「…してもしなくても、変わるよ。ていうか、もう変わってるよ。そういうことはしたくないし、無理だから、私帰る」

「え、なんで。俺のこと嫌い?」

嫌いになりました、今。


「まぁ、正直に言うと別に良いかなって思ったんだけど。私さ、友達に愛されてるんだよね」

「は…?」

「私より私の誕生日を大事にしてくれたり、私を想って泣いてくれたり、いつも応援してくれてる友達がいるんだよね。だからこういうことを私が許したら可哀想だし、傷つけちゃうじゃん。君にこんな話をしても、意味わかんないと思うんだけど」

「ちょっとなに言ってるかわかんない」

「だよね。わかんないだろうね。愛されている人間は、愛してくれてる人の想いを守る責任があるんだよ」


私はよくても、私は傷ついていないフリができても、友達はそうじゃない。「まぁいいか」と適当に体を許したことを、悲しいと思う人の顔が明確に浮かぶし、ここでの適当な判断は、愛への冒涜行為とも言える。

愛されている人は、愛してくれている人の心ごと一緒に生きているのだ。


自分を傷つけることを許すことは、自分を想ってくれる人の心ごと傷つけるということ。

意味のわからないことを言って部屋を出ていく私の姿が、彼にどう映ったのかは知らないけれど、あんたのことなんてどうでもいいわけで。私自身の気持ちだって、もはやどうでもいいわけで。


ただ、友達からの愛を易々とくれてたまるか!と目が覚めたのだった。


今回書いたことに限らず、こういう瞬間が、生きているなかで割とある。自分が無下に扱われたり、乱暴に傷つけられたりするとき、自分の心より先に思い浮かぶ友達の顔がある。「あ、悲しんじゃう」と、我に返ってちゃんと戦おうと思い直す。

それは言い換えれば、自分だけの判断で選択できない瞬間が人生に増えるということだ。

でもその不自由さほど、価値高い財産ってないじゃない?

与える側からしたら、愛は常に無償なのかもしれないけれど。受け取る側は、食べるだけ食べて満足して寝転がっているわけにもいかない。

それが、愛されるということの本質だと思うのです。



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