異国で、日本語のライターを続けることの難しさ
バンクーバーに来てから、1ヶ月も経たないうちにぶち当たった壁だ。
国を跨ぐ引っ越しだというのに、原稿の締め切りをひと段落させることもなく(終えられなかっただけ)バタバタと入国をして、英語を思い出しながら日本の原稿と向き合ったとき「なるほど、これは想像していた以上に難易度の高い挑戦だぞ」とすぐに気がついた。
まず最初に、英語脳の成長期間は明らかに日本語脳の容量を減らすことでバランスをとっている。英語ばかり聴き、英語を話し、英語を書いている時間が長ければ長いほど、加速度的に日本語が下手になる。とりわけ、「言葉を忘れる」という意味で下手になる。
これ、まじで驚きます。母語話者は努力せずとも日本語を忘れない、なんてことたぁない。母語話者、想像より早く母語を忘れます。1ヶ月足らずで「結果オーライ」がどうしても出てこなくて
【結果的によかったとき フレーズ 日本語】とGoogleで検索した日の焦りが忘れられない。こういうイディオム的な言葉はさらに簡単に忘れます。恐ろしすぎる。
次に、言語が変わると感覚、思考、感受性のすべてが変わってしまうということ。
私たちの人格形成は、母国語の特性が基盤になっていると言える。わかりやすい例で言えば、主語。
日本語にはたくさんの主語がある。わたし、俺、僕、あたし、うち、わたくし、拙者、オラ、わし、など。英語に変換すると全部「I」でしかない。
普段は「わたし」を使っていても、ビジネスシーンでは「わたくし」に変えることも珍しくない日本人には、主語を選ぶことで相手に与える印象を操作するという感覚が当たり前に備わっているのだ。
相手に敬意を持っていることや、自分の立場をわきまえていることを、主語を使って恩着せがましくなく自然に伝えるコミュニケーションは、実に日本人らしいと思う。言語を学ぶということは、その国の文化や一般的な感覚を理解していくということなのだ。
その割に日常会話では、本当に頻繁に主語を省略する。これほど主語消し去りすぎな言語は世界的に珍しいと言われるほど。文章的にくどいというのもあるけれど、主語を連発すると自己主張が強い、自己中心的、子どもっぽい、などの印象を持たれることが要因だろう。
控えめで周りの空気を読む、いかにも超ハイコンテクスト文化らしい言語なのだと思う、日本語は。
英語は真逆で、基本的に主語を省略しない。カフェで注文をするだけでも「Can I have(get)〜〜?」と言う。主語省略系の母語話者が、「I」を連発しながら日々会話を繰り広げていくとどうなるのか。意識せずとも自己主張が自然と強くなっていく。少なくとも私自身の変化では、断言できる。
「私はどう思ったか」「私の意見は」「私が欲しいのは」
言葉だけでなく、思考の順序も変化してしまう。そして、言語的特性に自分を順応させていくことが、その国での上手に生きていくことの大きな鍵になるのだ。
空気を読むよりも、自己主張をしなければこの国で欲しいものは手に入らない。とりわけ、日本人が大切にしている“謙虚さ”を守り続けることは、本当に難しい。意志が弱い、シャイ、内気、保守的というネガティブイメージを持たれることのほうが多い。評価されない、意識されない、(悪気なく)無下にされる。
謙虚さを重んじていると、心は簡単に傷だらけ血だらけになってしまうのだ。悲しいかな、さっさと捨て去ったほうが断然生きやすい。
でも日本語を使うライターとなると、そうもいかないのだ。
日本人的な謙虚さや繊細さを捨て去って書いた原稿は、読者にとって優しいものにはならない。
ライターとして失いたくないものと、この国に順応していくために必要なものは、ほとんど対立している。
これは、本当に難しい挑戦だなぁと思う。
もしもこのnoteを読んでくれている人のなかに、私と同じように異国で日本語のライターをしている人がいたら、ひとまずハグしたい。頑張ろうな……!
英語力の成長速度は、日本語を捨てるほうが明らかに早い。日本語に触れないように努力したほうがいい。というか、そうしろと言われる。
ではどうする?ライター業を休止して英語に専念するという選択肢も当然あるだろうけれど、私は全然それを選びたくない。「どっちも頑張ろうぜ」である。
口で言うほど上手くいかないよね、絶対そう。もっと早く英語力伸ばしたいよね、ほんとそう。でもワクワクする、懸けるに値する挑戦だなと思う。長い長い戦いになるだろうけど、このくらい難しくて、だけど両方好きなほうがいい。
この二刀流は、頑張ったほうがいい。何よりも、この挑戦の渦中にいることが、楽しいと感じるから。頭を抱えることが多すぎるし、大変だけど、やってみたい。登り詰めたい山だぜ!と思うし、私が登るべき山だと思える。
言語を学ぶことには本当に底がないね、いくら依存しても終わらない。そういうものを好きでいられるのは、幸せな人生だな、と思うのだ。