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「足りないものばかり数えないで」

と、事あるごとに言われている気がする。

うとうと眠くなるあたたかい日差しも、高く広くつづく青空と雲も、そよそよと揺れる新緑も、咲き誇る花たちも、小鳥たちの声も、全部ある。春が微笑んでいるこの日々には、全部がある。

休日にだけクローゼットから出せるお気に入りの服も、靴も、鏡の前でもっとご機嫌な自分になれるコスメたちもあって、何よりも、好きな時に好きな場所へ行ける、自分の意志で動き回れる身体がある。


──幸せって、こういうことでしょ?

私にとってバンクーバーは、この問いを日常のなかでたくさん、本当にたくさん投げかけてくれる街だ。

ここには、お洒落なファッションブランドが山ほどあるわけじゃない。100均や3coinsのように、破格で便利なお店もないし(正確には存在するけど質は悪いし100円ではない)、日本よりもすべてが適当なのに物価は高い。中心地でまともに一人暮らしをしようとしたら、家賃で25万円はかかる。びっくりするほどホームレス(ほとんどが薬物中毒者)が多くて、高頻度で人糞と遭遇している。

物、店、社会制度、サービス、経済活動のもと生み出されるほとんどのものが東京よりも少ないだろう。私も来たばかりの時に思ったよ、「何もないじゃんこの街」って。美味しいレストランもあんまりないし、カラオケだって謎に高いし、なんか変なシステムでほぼ存在してないに等しい。

だから、日本や韓国から来た人たちが「バンクーバーつまんない、何もない」とか「もう飽きた」って母国へ帰ったり、他の国に移っていくのもわかる。東京やソウルから来たら、足りないと思うよ、何もかも。

それでも私にとって「程よく全般的に足りていない」と言えるこのバンクーバーが、人生には必要なんだ。留学生やワーホリで渡航してきた人たちも国民保険に加入できて、病院に行けば無料で診てもらえる。長期になるほど心配な医療制度で安心できるのは、大きい利点だ。役所関係の手続きが死ぬほど遅かったり、ストライキでバスや電車が数日間止まったり、不便だなぁとか適当だなぁと思うことはあるけれど。

私にとっては、暮らすのに必要最低限のラインを超えている。そして問われる「これ以上、本当に何か必要なの?」と。

「もうすべてがあるのに、まだ足りないと思うなら、その人生が貧しいんじゃない?」と。


私はここにいて、お気に入りの服を着て日差しの下を散歩して、ふと見つけたパティオでこうしてnoteをつらつらと書いていて、明日も出勤する職場があって、家に帰ればふかふかのベッドがある。

例えば思いつく限りすべての野望を書き出したとして、人生で達成したいすべてのことを書き出したとして。その全部を成し遂げた自分が未来にいたとして、彼女から見れば今この場所にいる私は、まだまだだと思うよ。「そんな場所で満足してるなよ」と呆れられるくらい、足りないもののほうが多いんだと思う。

でも、幸福はここにあるよ。ずっとあるよ。
少なくとも、私は私自身と、愛する人たちのおかげで、「幸せだよねぇ」と言える人生を手に入れた。

今よりもっと多くのものを手にした未来の私からしたら、あるいは、他の人生を生きている多くの人たちからしたら、足りないものばかりだとしても。

この人生を手に入れた自分自身に、私は「大丈夫だよ」と言える。
そんでさ、やっぱり思うのよ。偉そうだよなぁ、と、僭越ながら、ではあるのだけど、やっぱり伝えたいのよ。私たちは、大丈夫だよって。

自分の手で、自分をちゃんと幸せにできるよ。

自分を助けてくれそうな人との出会いや、その人が「助けてあげるよ」と言ってくれるのを待たなくても。そう言ってもらうために、自分を押し殺したり、傷ついているのにわざと笑ったり、誰かに何かをしてもらうために心を差し出さなくても。

自分の足で、歩けるよ。転んだときに、手を差し伸べてくれる人を待ってみたとして。その手に甘えていたほうが、愛されているように見えるかもしれない。欲しいものや、食べてみたい高級なものを一言のおねだりでその全部を手に入れられるほうが、他の誰かよりも、愛されているように見えるのかもしれない。

でも、自分で立ち上がったほうが早い。欲しいものは何でも自分で手に入れられるように強くなれば、ずっと自由だよ。

他の誰かに期待して機を委ねるよりも、自分に期待して生きたほうがきっと、人生を愛せる。

「足りないものばかり数えないで」とこの街から言われるたびに、ちゃんと今あるものに、感謝したい。信じたい。ずっと忘れずに生きていたいから、私にはバンクーバーが必要なのだ。




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