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「好き」の深度は、知識量では測れない

「にわか」「ガチ勢」「古参」など、好きの深度を測ったり、ファンの中でも熱量のランク分け(≒マウンティング)をするために生まれた言葉がいくつかある。

主にアイドルグループを愛する人たちの間で生まれ、特定の文化圏で多用されている言葉ではあるけれど、千差万別な人それぞれの「好き」の深度を、知識量や経験値で測ろうとする行為自体は、世の中に溢れていることだよなぁと思う。

例えば自分が、「エヴァンゲリオンが好き」と誰かに話したとして
「私もエヴァ好きだよ!」という共感を得た次に、「最後の劇場版新エヴァもちろん見たよね?」と聞かれたとき。

「ううん、見てない」と答えたら、なんだか「新エヴァを見てないなんて、本当に好きなの?」という空気が流れるだろう。そして相手が見ていた場合、その人のほうが、エヴァを好きな気持ちが強いように映る。

もちろんお互いが同じように共有できている場合は、仲間を見つけた気持ちになって嬉しいし、深く繋がり合える感覚もある。好きなものについて語り合うのは、悪いことばかりではないし、喜びを分かち合えるケースも多い。

というか基本そっちがマジョリティで、ネガティブに捉えがちなのは私自身がただ面倒くさい奴なだけ、というのは否定できない。ですよね。自覚があるから、このテーマについては今まで書かずに秘めていたのだ。

「好きなもの」を共通項として会話を展開することで生まれる、誰かにとって居心地の悪い空気を極端に嫌ってしまう。とても苦手だ。

自分が「知らないほう」になる場合も、「知っているほう」になる場合も、その会話のオーディエンスである場合も。


好きなものについての話は……例えばエヴァなら、どれだけ作品についての深く考察できているか、庵野監督の裏話や制作秘話を知っているか、ファンの間で蔓延る噂話や逸話についての知識量や、劇場に足を運んだ回数、イベントに参加した回数、どれだけ昔からグッズを集めているかなどの経験値がわかりやすい会話を展開することで、「好きの深度」を探るような流れが生まれやすい。

エヴァのように社会現象にまで至った作品である場合は特に、自分の尺度で深度を測り、知識と経験を見せびらかすことで、マウントを取りたがる人も増えるだろう。


知識量と好きの深度は比例しないよ、と思う。


私自身の愛するものが、誰かの尺度で深度を語られてしまう機会が多いから、強く思うのかもしれない。

例えばエヴァも、Mr.Childrenも。

「ミスチルの好きな曲にHANABIを選ぶのはにわか」というような発言が、ファンの中で繰り広げられたりするたびに、いかがなものかと思う。

その曲への想いや言葉を吊し上げて、自分の深度をひけらかしたり、自分よりファン歴が浅いことを嘲笑したり。Mr.Childrenの名を挙げる場所で、排他的主張をされるのは、やっぱり気持ちのいいものではない。


桜井和寿の年齢を知らなくたって、Mr.Childrenの音楽を愛している人はみんな等しく「ファン」だ。
ライブに何回行ったことがあるか、書籍を何冊持っているか、どれだけ昔の曲を知っているかというのは

あくまでも各々の好きを表現する方法のひとつであって、すべての「好き」に当てはまるものではない。深度の指標とは言い切れない。


好きだと語る人の中にはそれぞれ、「好き」と言葉にしたいほどの動機があって、思い出があって、感謝があるものだ。

たった一曲しか知らないとしても、その一曲に込められた想いの深さは「知っている曲の数」で測れるものではない。誰にも測れない。誰にもジャッジをする権利がない。


「彼らにまつわる何をどれだけ持っているか」で競ったりしなくても、あなたの好きはあなただけのもので、それは誰にも測れないし、誰にも触れることはできない。一生あなただけの聖域だ。


わかりやすく語れる何かを持っている「好き」ばかりじゃないから、人それぞれの愛し方があることを前提に、対話をする姿勢が問われる。

好きなものについての話はとても繊細だから、「自分の尺度で測らない」という敬意が、第一に必要なんだよなぁ。



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