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「好きなものだけ」が生む退屈さ

半年前、今の新居に引っ越してきてからうちにはテレビがない。

私はもともと、家にいてもテレビをあまり見ないタイプだった。ちょっと変な表現かもしれないのだけど、テレビって、うるさいのだ。

興味のない番組や興味のない人の話が耳に流れてくるのは、鬱陶しいと感じてしまう。音がある場所では、なかなか物事に集中できない。原稿を書くときにはもちろん、本を読むときも、SNSを徘徊しているときも、他に音があると気が散ってしまうから、基本的に私の部屋は無音だ。

たまに、音楽を聴きながら原稿に集中できる人と出会うけれど……脳のつくりが根本的に違うのだろうか?本当に不思議だ。カフェにいても、人が多くなってくると原稿に集中できなくなる私からすると、とても羨ましい。

ちょっと話が逸れたけれど、当初、私はテレビのない生活になんの不自由もないだろうと思っていた。
むしろ、無い方が快適になるだろう。

好きなテレビ番組はいくつかあったけれど、今はTVerをはじめとする「見逃し配信サービス」がある。世界各国の新聞もネットで読める時代だ。

テレビがなくても日頃から情報収集を行なっていれば、ニュース番組にこだわる必要もない。

そんなわけで、私はテレビを躊躇なく手放した。


そして、テレビのない生活が「つまらない」ということに気づかされたのだった。

テレビと共に失う大きなもの、
それは日常の偶発的な出会いだ。

「なんとなく流れてきたから目を向ける」ということが、本当になくなる。

YouTubeを流しっぱなしにしていても、アルゴリズムによって自分の嗜好に最適化されているため「全く未開の情報」が勝手に流れてくることは少ない。TVerでは、自分で選んだ番組以外が流れることはない。

常にテレビを見ていたわけでもない私ですら、こんなに何かを失った実感をするものなのかぁと、今更ながらテレビの影響力を身をもって感じる。


「自分で選んだ好きなもの」以外の選択肢がひとつも流れてこないということは、自分の期待・予想の範疇を超える出来事が、極端に減るように思う。

絶対に興味がないと思っていたのに、予想外に興味をそそられるとか、予想外に新たな学びを得るとか、予想外に好きが増えていくとか、そういう偶発的な豊かさが失われていく。

単行本ばかりを読んでいると、新たな漫画や作者と出会う機会が減るように。

音楽フェスとか、漫画雑誌とか、フードコートとか、複合施設とか、商店街とか

好きなものも、興味のないものも、嫌いなものも、知らないものも。いろ〜〜んなものが同等に、自分に触れていく心のゆらめきが、人生にはきっと必要だ。

便利になって、どんどん個人の嗜好にパーソナライズされていって、好きなもの以外に触れる時間を「無駄」だと思ってしまうことも増えたけれど、そうじゃないんだよなぁ。

想像できない場所にあったものに触れることが、日常に彩りを増やしてくれるのだ。

テレビはわたしの人生に、まだまだ必要だったらしい。




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