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「誰にも更新されたくない」という執着
「こないだ、実家帰って部屋の掃除したらさぁ」
居酒屋のカウンター席で、隣に座っていた女友達がレモンサワーを片手に切り出した。
「うん」
「元彼との写真とか、貰った時計が引き出しから出て来て(笑)」
「うわぁ〜!(笑)」
「うわぁ〜だよね(笑)。もう何の未練もないんだけど、なんかエモすぎて捨てられなかった」
その光景を想像して、私の胸までキュッと狭くなる。彼女が実家で暮らしていたときの恋人と言えば、一人しかいない。
私も何度か一緒にご飯を食べたことがあったし、当時の私の彼氏とも仲が良くて、4人で遊んだこともあった。自分もその思い出の中にいるからこそ懐かしさが込み上げて、同時に二度と戻れないことが、今更ちょっと、切なくなる。
「不意に元恋人の遺品を見つけちゃうこと、あるよね」
「遺品って(笑)」
「そういう時、捨てられる?…ってか、別れた時点で思い出の物すぐ捨てるタイプだっけ」
「うん、全部捨ててたね」
***
過去の私は、「どんなに辛くても、別れたその日に、全ての思い出の品を絶対に捨てる」というポリシー(とも言えるようなもの)を持っていた。
別れ話をした日、家に帰ってきたらその足でキッチンへ向かい、可燃ごみ用の指定ゴミ袋(45ℓ)を引き出しから取り出す。私が「ただいま」も言わずに泣き腫らした顔でゴミ袋を持ち部屋に上がったら、家族は何も聞かずに、全てを察してそっとしておいてくれた。
部屋に入ったら、一思いにゴミ袋の中に物を詰め込む。手紙も、アルバムも、写真も、服も、何もかも。泣いていてもいいから、死ぬほど痛くてもいいから、あまり見つめずに、開封したりせずに、とにかく手を動かす。
袋に物を詰め終わったら、スマホの中のデータを全部削除する。
「物に罪は無いから」と、別れた人との思い出の品を、そのまま大事にする人も多いだろう。私はずっと、それを出来る人が羨ましかった。
私が全ての物を即座に手放すのは、吹っ切れているからでも、忘れたいからでも、次に進みたいからでもない。
幸せな思い出のままで、
全てを閉じ込めておくためだった。
もう誰にも、
2人の思い出を更新させないためだった。
「付き合っているときの物」のままで、
終わらせるためだった。
例えば彼に新しい恋人ができて、「元カノどんな人だったんだろう」と私のSNSを検索したとする。
その時、もし私と彼の写真が残っていたら。
もし彼からもらった物を私が身につけている写真があって、「彼が贈ったんだろうな」と気付かれたら。
幸せな思い出だったものが、
次の恋愛の足枷に変わってしまう。
物を残せば、それに再度触れる未来の自分によって更新される恐れがある。記憶も、感情も。
実際、彼女の引き出しに眠っていた品々は「青春時代のエモい思い出」に変わっている。
平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』の台詞にもあるように、未来は過去を、簡単に変えてしまうのだ。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど実際は、未来は常に過去を変えてるんです。
変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
ふたりの時間が未来によって形状を変えることを、私は何よりも嫌がった。だから捨てた。
捨ててしまえば、もう誰にも触れない。
捨てるという行為は、潔さを表すように見えるけれど、私にとっては執着の象徴だった。
でも捨てた結果、副産物として「もうどうしようもない」という諦めが手に入る。唯一とも言える救いだ。
***
「まぁ……だから実家に帰っても、元恋人のものはひとつもないね」
「刹那主義ってやつ?」
「ちょっと違う(笑)」
「この先もそうなのかな」
「いや、もう前ほど執着してないよ。物があってもなくても、どちらでもよくなってる」
「それもそれで、ちょっと寂しいね」
「……そうね、」
今更だけど、ここのレモンサワー美味しいよね。
とか言いながらもう一度乾杯をして、いつの間にか手を離れた“執着”への寂しさを、美味い酒が流していった。
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