自分の敵は自分
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繰り返し観ている舞台のDVDがあって、いつもレンタルすることになるので、もう買った方がいいよねという話にもなっているけど、それを観ていた。
ストーリー差し代わった?というようなシーンがあったり、こんなこと言ってた?というセリフがあったり、泣けるポイントも増えていた。
いや、実際には増えていないのだけど。(当たり前だ)
そのくらい内容が大きく変わったのではないか、と錯覚した。そして、そういうことが毎回ある。
定期的に観直す、と言ってもたった数ヶ月くらいの間隔で、それでも、こんなにも感じ方が変わるというのは自分自身が大きく変わっているということになる。
あまりに細かいセリフなどは飛んでしまっていることはあるが、メインストーリーでこれまではなんてことのないシーンだったものが、今では感情を大きく揺さぶられるシーンになっていたりする。
人が変わったとか、疲れているとか、気分の問題とか、細胞が常に生まれ変わっているとか、人間のほとんどは水だよとか、いろんなことがあると思うけど、自分は刻一刻と変わっているようです。
カルチャーショック、という言葉があって、文化の違いによる心理的な衝撃というような意味だけど、僕にとっては「価値の転換」という意味で捉えていて、それがしっくりくる。
これとこれってこんなに違うんだ、豚肉食べないんだ!ということじゃなくて、さっきの話のように「感情の揺さぶり」が起こったときにカルチャーショックとなる。(正しい使い方じゃないんだろうけど)
自分の世界がガツン!とひっくり返されたような気持ちというか「これは自分の中には全くないぞ」と感じた瞬間にこそカルチャーショックが起こる。
ちょうど今、阿部芙蓉美さんの曲を聴きながらこれを書いているんだけど歌詞の中に
というのがあって聴くたび「ハイウェイに対してそういう気持ちになったことがない!」と思う。
宗教が、言葉が、文化がこんなに違う、というのはもちろん、こういう小さいところにも「価値の転換」は、ある。こんな脚本が、ストーリーが、こんなメロディが、こんな食材の組み合わせが。作り手は「小さい」どころか命を削って生み出しているものだからそういう表現は正しくなさそうだけど。
その価値の転換は一度ではない。
同じ作品でも「刻一刻と変わる自分」がいるのなら必ず毎回、それは起こるはずです。
子供の頃に聞いたハードロックがよく分からなくても、大人になったらわかるようになる、みたいなことや、反対に永久にわからないものもあるのは当然として。
一度でも自分に何かをもたらしてくれたものは「相性」がいいんでしょう、作品への新しい理解を毎回もたらしてくれる。
子供が生まれなければjohn prineのsummers endはわからなかったし、エリッククラプトンのtears in heavenにも心打たれなかっただろう。
経営者をしていなければAIR(マイケルジョーダンとNIKE、エアジョーダンにスポットを当てたアメリカのドラマ映画)の面白さはきっと半減していたと思う。
この世にある「作品」はストーリーや形を永遠に繰り返すだけです。チェンジはない。小説はページをめくれば同じ苦難に立ち向かわなければならないしバッドエンドは繰り返される。絵画はトマトを投げられても、新しく書き換えられるわけじゃない。
あるのは、それを受け取る側の変化だけだ。
カルチャーショック(価値の転換)は与えられているようで、自分からもらいに行かなかればならない。
なんでも与えてもらって当然と思ってちゃ、いけないよなと感じる。
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