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ハートに火なんかつけないで

感動したときに「心が震える」という表現があって実際にそういう気持ちになることがある。心の底から感動した、と。
でも大好きで何回も観ている映画があるのだけれど、毎回「心が震えている」かというとそうではない気がする。だって内容は全部知っているのだから。
"習慣性”
心を震わせる量は目減りしていくのだ。
あらすじの確認作業の負荷は(記憶という習慣によって)どんどん軽くなっていく。


いいものは何度でも感動するけれど、楽しいとか悲しいという感情のようなものを大きく揺さぶられているというよりは、どちらかというと「脳」の処理の問題だと感じる。心よりも頭に汗をかくようになるのだ。

何回も観たい映画や、何回でも聴きなおしたい音楽、繰り返し読みたい本、そういったものが共通して持っているものは「余白」だ。
その余白に自分が持っている全ての考えや知識を総動員して処理しようとする。余白を埋めるという作業になる。
「ここの意味は」「なぜバッドエンドなのだ」「これは正しいのか」「なぜこの黒猫は喋れなくなったのか」など、余白はずっと埋まらない。正解につながるハシゴが物語の中で外されているからです。

さらに10代のときの脳、20代のときの脳、30代のときの脳、それは1日ごと変わっている。生まれ変わりというものがあるのならば、脳は1秒ごとに輪廻している。
”脳の輪廻”
ずっと同じじゃないから毎回考える。感動というのは心が震えることではなく「考えること」なのかもしれない。
たくさん考えればいい。それが感動することだ。ハートに火なんかつけなくていい。

心を震わせる、といったことは確かにある。でもそれはあらすじに依存しているので繰り返し同じものを見ても心は震えない。
何に感動しているかというとそのものの余白だ。

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”いつか僕らも大人になり老けてゆく”

人は平等で、天人でさえも等しく老いていく。それは決まっているのだからたくさん考えたい。毎日、毎秒いろんなものに常に最新の自分をぶつけてその事象について感動したい。
細胞レベルでは確かに別のものかもしれないけれど目の前のことは毎日大きくは変わらない。
でもそれを処理する自分は常に新しい。

感動はそこにある。

そこに存在する余白は、自分のアップデート具合によっても増えたり減ったりするのかもしれない。だから余白って言うんだけど。空白が余るなんて言葉、面白いなぁと思う。

ハートに火をつけるな。頭に汗をかけ。


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