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愛の本質

わたしが娘を産んだ時、
すごいことに気がつきました。
それは

「赤ちゃんのエネルギーは最強」

ということです。

赤ちゃんは、人目を引きます。
そして赤ちゃんを見たほとんどの人が
笑顔になります。

さらに、その多くの人が
赤ちゃんに優しく話しかけたり
母親であるわたしにも
笑顔で声をかけてくれました。

その誰もが
とても嬉しそうだった。

おかげでわたしも周囲との接点が急増、
人々や土地にもっと愛着と感謝を感じ
会話と、そこからの学びも増えました。


赤ちゃんを見て自然に溢れる笑顔

わたしは人の笑顔を見るのが好きです。
そして、人の笑顔を見たかったら
赤ちゃんを連れて歩くと
多くの素敵な笑顔が見れます。

カナダの人は全くの赤の他人でも
8割以上が間違いなく笑顔になり、
うち半分くらいが赤ちゃんに話しかけたり
面白い顔をして見せたりします。

しかし、個人的経験では
日本人は知り合いならともかく
通りすがりの見知らぬ人になると
無反応なことが多いですね。

全くの他人であっても反応するのは
ほとんどが女性、それも
お孫さんがいそうな年代の方が圧倒的。
その次が女子中高生かな。

もうずいぶん前の経験ですが、
今の日本はどんな感じなのでしょうか。

でも、少なくとも知り合いのお子さんなら
日本でも笑顔になる人がやっぱり多いんじゃないか。

赤ちゃんに対する何らかのトラウマでもない限り
人は「自然な反応として」
赤ちゃんを見ると笑顔になると思うのです。

見ず知らずの子に対して話しかけたりしたら
ヤバい人と警戒されるんじゃないか、
なんてブレーキがかからない状況であれば
もっと赤ちゃんに笑いかけるのではないか。

そういう前提で話を進めますが、
この「自然に出てくる笑顔」。
それこそが「愛」の本質じゃないのか、と
そんな風に思います。


「愛」と「愛着」の違い

赤ちゃんに対して自然に笑顔になる時、

「こんなに愛想よくしてやってるんだから
お前もちょっとはいい顔見せろよ」

と同時に思っている人は少ないはずです。
多くの人は赤ちゃん、
それも他人様の赤ちゃんに
そこまでは求めませんよね。

ところが、旦那さんや同僚に
いつも笑顔で対応している人が、心の中で

「こんなに笑顔で接してるんだから
ちょっとは感謝して欲しいもんだわ」

と思っていることは、結構あるかもしれません。

じゃ、この二つの状況の違いは何かというと
相手が片方は生まれたばかりの赤ちゃんで、
もう片方は「いい年した大人」だという点です。

興味深いのは、相手が
「何も分からない」という前提だと
相手から「わたしを満たしてくれる反応」を
何も求めない、という点。

これが、相手が「物の分別が付くはず」と
前提が変わった途端に、
その反応が自分の理想通りかどうかで
相手への「評価」が発生します。

理想通りでなければ
「ちょっと、何なのその態度は?」
理想通りであれば
「やっぱりこの人は素晴らしい」

でも、赤ちゃんなら
あなたの渾身のベロベロバーに対し
ウギャーと泣いたり
ガン無視で隣の誰かに視線を移されても

「あっはっは、赤ん坊って面白いな」

で済んだりします。
これは、冷静に考えてみると
凄いことではないでしょうか。

つまり、人は元々赤ちゃんに対するような
「無償の愛」を持っています。

ところが、恋愛とか家族愛とか言われる
そういう「愛」になってくると
相手に対して「わたしに与えてよ
という思いが入ってきます。

わたしも与えてるんだからあなたも、
というのはもちろん
「親なんだから」「旦那(奥さん)なんだから」
やってくれて当然じゃないの?みたいなのもあります。

こうなってくると、そもそも
「与えてもらいたい」のが前提なので
貰えていない状態になる(そう感じる)と
不満が沸き起こります。

誤解しないでいただきたいのは、
人はみんな「愛されたい」つまり
「与えられたい」生き物です。

大切にされたい。
価値を認められたい。
感謝されたい。

「されたい」と思っていなくても
されたら嬉しいのが人間ですし、
それをモチベーションにすることで
多くの進化発展を遂げて来ています。

ただ、赤ちゃんを見て自然に顔がほころぶ時と
誰かが自分に何かを与えてくれて嬉しい時。

このどちらがより
「自己安定感」に繋がるかというと
これはもう、間違いなく
赤ちゃんを見て自然に顔がほころぶ時です。

なぜかというと、そこには
ただ「愛おしい」という感覚があるだけで
相手の反応と自分の存在の間に
なんの「保証関係」も介在していないからです。

相手の機嫌次第で
自分の存在価値が揺るぐわけでもなく、
相手はただ「ありのまま」で存在しており
あなたはそれを「可愛いな」と愛でている。

自分の存在価値を相手に測ってもらわない、
測ってもらうつもりが最初からないので
至って気楽に、安定して
相手を「愛する」ことができます。

赤ちゃんに対する単純な愛おしさ、
その存在を喜び出会えたことを楽しむ感覚を
「愛」であるとすると、
恋人や家族への思いは「愛着」だと言えます。


「愛着」を越えて

「愛する人がいないと生きていけない」
というのは、正しくは
「愛着を持てる人がいないと生きていけない」
ということではないのか、と思います。

赤ちゃんに対するような「愛」ならば
どんな人やモノ、自然に対してでも
ただ感じればいいだけのこと。

自然の中に行って涙が出そうになったり
YouTube で頑張っている若者を見て
「素晴らしい!美しい!」と思ったり
それがすでに「愛する」ことだと思います。

つまり「愛する対象」は
自分が「愛すること」さえできれば
いくらでも存在する、ということ。

なので「愛する人がいなければ」という
限定性は、意味をなさなくなってきます。

一方の
「愛着を持てる人がいないと生きていけない」
これはどういうことなのか。

それは、簡単に言うと
(誰か、何かを)愛している、という実感
それ無しには生きていけない、ということ。

ここで重要なのは
「自分が」「誰か(何かを)」「愛している」
という充実感のようなものです。
それが生きるモチベーションになるということ。

ということは、つまり自分が
「何かを愛してるワタシ」を感じたいわけで、
「自分のエゴを満たすための対象がないと
生きていけない」ということになります。

それが、赤ちゃんに向けた「愛」とは異なる
自分の存在価値を知りたいがための
「愛着」だと、わたしは思います。

繰り返しになりますが、
それがいけないという話ではないんですよ。

むしろ、愛着を持ってしまうのは
人間として当然、自然のことであって
それが(最初から)ないなら仏様、
人間として生まれてくる必要もないと思います。

ただ、人間がこの「愛着」と同時に
赤ちゃんに対するような「愛」も感じる、
この事実が何を意味するのか、という点を
考えてみたいと思うのです。

そのヒントは、おじいが言うように
地球、そしてそこに生まれてくる人間の
本質的なベクトルが「進化、共栄」である
ということではないかな、と。

人は、誰かを好きになり
その人に好かれたいと思うことから
「愛着」を学びます。

親子関係がその代表的な実践場であり、
続いて恋愛や夫婦関係。

(関連過去記事)

それを学ぶ中で、人は
「愛着」だけでは疲れてしまうことに
やがて気づくのではないか、と。

エネルギーは本来循環するものなので、
自分が疲れる、エネルギーが枯渇するのは
「何かがおかしい」というサインです。

そうやって成長しながら、わたしたちは
「大人」になっていく。

大人というのは「次世代」のことを
視野に入れた考え方をする人のことです。
地球と人間のベクトルが「繁栄」ですから、
子孫を繋ぐことに自然と関心が向かうのです。

すると、だんだんと
「一所懸命生きようとする命」に対して
笑顔や、応援したいという気持ちが
自然に湧いてくる。
直接的な見返りが無くても。

頑張っている人を見て感動したり、
映画や小説の主人公が
困難を乗り越えながら成長して行く姿に
感銘を受けるのは、そのせいではないか。

前へ向かってひたすら進む姿や
生きることを諦めない姿に
エネルギーをもらい、敬意を感じる。

そこに魅力を感じている状態、
それが「愛」なのではないかと思います。

壮大な表現になりますが、それは
自分もその一部である
「命の営み」のようなものに対する感動。

そこに触れることで、
自らが生まれて来た目的でもある
「生きる」ということに注がれる
エネルギーを得るんじゃないかな、と。

「愛」って何だろう。
そう考えた時、わたしは
赤ちゃんを見て思わず笑顔になる
たくさんの人たちを思い浮かべます。

人は心の奥深くで、いつも、死ぬまで
「生きよう」としている。
それが本来の姿なんじゃないかな、と思います。



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