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「ハプスブルクの鏡」 ④ (終)


「ハプスブルクの鏡」④ 終


1910年 ウィーン


 しかし相手は屈強な軍人なのだ。芸術家ふぜいのぼくが力でかなうわけがない。

 皇太子はいとも簡単にぼくをねじ伏せ、胸元に銃口を突きつけた。次に予想される一発の銃声に備えて、全身の筋肉が心臓の一点に向けて緊張する。

 もはやこれまでか。ぼくは覚悟を決めた。

「殿下!」
 若い男がすぐさまドアの外から飛び込んできた。
「お怪我は?」

「大丈夫だ」

 とりあえず、惨劇は回避されたようだ。

 おそらく皇太子の側近と思われるその男は、慎重に片手を挙げて皇太子を制し、床に倒れていたぼくを起こしながら両腕を背後に乱暴にねじり上げた。抵抗する気はなかった。しかし理不尽じゃないか。

「彼の自殺を止めようとしただけなんですけどね!」
 とりあえず文句は言わせてもらう。後先考えずに。

 その場の空気が凍りつく。

「大公殿下……?」
 側近は疑いのまなざしを皇太子に向けた。

 皇太子は鋭い目配せでそれを否定し、こちらに向けていた銃を腰に収めた。

「しかしどこから入って来た?」
 側近は当惑していた。
「ドアの外にはわたしを含めて見張りがいた。そして窓は閉まっている」

 彼はぼくを抑えながら皇太子に向き直った。

「この男はどこから現れたのです?」

 皇太子は何も言わずに壁に掛けられた鏡のほうを見た。その時になって初めて、ぼくは自分の置かれた状況の本当の恐ろしさに気づいた。

── ここはどこだ? ──

 銃口を突きつけられるより、はるかにとてつもない恐怖心。

 鏡がある。うちにあったハプスブルク家の鏡と同じものが。しかしここは別の部屋だ。高い天井に巨大なシャンデリア、きらびやかな内装。おそらくどこかの宮殿だ。
 そして目の前に皇太子がいる。その昔、サラエボで暗殺されたはずの、フランツ・フェルディナント、その人が! 

── ここは、いつだ? いつの時代!? ──

 鏡の中の過去の世界に、自分は来てしまったというのか? 

「いったいどこから現れたのです? 彼は」
 側近の若い男はもう一度、皇太子に確認した。

「気づいたら目の前にいたのだ」
 皇太子も当惑していた。
「まるで降ってきたかのように」

 二人は天井を見上げた。降ってきたとしたって、特殊な装置でも使わない限り、間違いなく怪我をする高さだろう。

「鏡の前に、わたしは立っていた」

 皇太子は、しかしその先を続けられない。鏡の中から人が現れたなどと言えば、気がふれたと思われる。

 側近は皇太子の了承を得た上で、ようやく腕を放した。ぼくは警戒しつつ両腕を挙げ、抵抗の意思がないことを示す。
 側近が鏡を調べ始める。背後の壁まで、くまなく。額縁が豪華ではあるが、鏡自体は何の変哲もない、普通の鏡。
 たかが鏡、されど鏡。ぼくはあの中に再び帰れるのだろうか。元の世界に、ハイデンベルク家の、あの鏡の間に。

「とにかく衛兵を呼びます」

 側近の言葉を、皇太子は制した。
「待ちたまえ。彼に二、三、聞きたいことがある」

 二人は奇異なものでも見るように、ぼくを観察している。そりゃそうだろう。服装は平服。しかもシンプルな半袖のワイシャツに、タイもなし。無造作なヘアスタイル。貴族制度も廃止された、およそ50年後の一般人の。
 しかもポケットには身分証も、財布すら持っていない。……いや、持ってなくて幸いだった。未来の運転免許証に、未来の紙幣やコイン。偽造と思われるのがおちだ。下手をしたらスパイ容疑で拷問の末、一生牢獄にぶち込まれるか。

「そなたは何者だ。名は何という」

「ハイデンベルクと申します」

 言ってから、しまった! と思った。
 大変だ。もしや、今のぼくのひと言のせいで、祖父がこの鏡騒動に巻き込まれてしまうのか。

「わたしは画家で、気づいたら、ここにおりました。自分でも、わけがわからないのです」

 記憶喪失を装うのが手だろうか。鏡の中から来たなんて言えば、狂人扱いで精神病院行きか。怪しい注射を打たれ、廃人同様にされ、生涯幽閉されるのか。

── 果たしてぼくは元の世界に戻れるのだろうか ──。

 ノックの音。

 何でもいい。どうにかしてこの状況から抜け出せたら……。

 皇太子は側近に、使者を中に入れぬよう合図し、用件を聞きに行かせた。

 さすがだ。目配せだけで、通じるのだ。

 皇太子は、攻撃的な言動や派手な生活ぶりが禍してか、宮廷では孤立気味だったという。ああしたお抱えの側近が数人いれば、事は足りるのだろう。

「皇帝陛下がお呼びです」
 戻ってきた側近は困ったように続けた。
「彼をどうします」

「見張っておきたまえ。すぐに戻る」

 側近はさりげなく腰から銃を抜いた。

 皇太子は繰り返した。
「すぐ戻る。銃は必要なかろう」

 そしてこの広い部屋に皇太子の側近と二人きり。軍服の様子からして、若くとも、地位はかなり高そうだ。歳はぼくよりいくつか下だろう。まだ新米、といったところだが、皇太子のお抱えとは、よほど優秀なのだろう。

 ははあ。これが祖父の言ってた男か。

 祖父を取調べ、鏡を届けに来た青年。冷静さを保ってはいるが、頬の紅潮が精神の未熟さを物語っていた。

 今がチャンスなのかも知れない。ここから脱出するには。
 ぼくは窓の外を見やった。カモメが飛んでいる。たくさんのカモメが。中庭と、正門と。そこで気づいた。
 ここはシェーンブルン宮殿だ! 
 そうだ。鏡はシェーンブルンにあったものだと、祖父も言ってたじゃないか。
 窓ににじり寄ってみる。二階か。飛び降りれる高さではなさそうだ。

「おい。動くんじゃない」
 側近は部屋の中ほどに椅子を置いた。
「座っていたまえ」

 力はおそらく互角とみた。奴を殴り倒して、果たして門の外まで行き着けるかどうか。
 軍服を拝借し、外の衛兵に「ご苦労さん」と声をかけ、さりげなく出て行く。宮殿の出入口も、堂々と素通り。入って来る者は警戒するが、出て行く者に対しては、たいがいは無頓着なものだから。
 外に出られさえすれば、ここからならどうにかして、我が家にたどり着けるだろう。

 いや、何てバカなことを! この時代のハイデンベルク家に戻ってどうするというんだ?

「コンコン、ハイデンベルクさん、こんにちは」

「どなたですか?」

「実はぼくもハイデンベルクなんですよ!」

 この家の子孫ですと? 若かりし頃の祖父に会って? まだ結婚もしてない頃だし、父だって生まれてもいない。それなのに、あなたの孫ですと?

 いったいいつなんだ。今は。鏡がここにあるということは、祖父の体験以前のはずだから、50年は前なのか。二度の世界大戦も世間はまだ知らず、皇太子は──、

 そこでぼくは重大な事実に気づいた。自分がしたことの重大さに! 

 皇太子は今しがた、確かに自殺を図ろうとした。おそらく発作的に。皇帝との言い争いは、かなり激しいものだった。激昂していたに違いない。

 ぼくが止めていなければ……。

 一発の銃声と共に、皇太子は命を落としていたかも知れないんだ。
 そうなると、後に彼はサラエボに行くこともなく、セルビア人に暗殺されることもなく、

 そして第一次大戦は起こらない。

 オーストリアもドイツも敗戦することはなく、悪名高きヒトラーは登場せず、よって続く第二次大戦も、ホロコーストも起こらない。まさか、そんなことが。

── 自分はこの世界における未来を変えてしまったのか? ──

 一人の命を救ったことで、二度の大戦に渡る、何千万もの命が失われることになるのか! 

 何て事をしちまったんだ! 

 ぼくは歴史と命の重みで押しつぶされそうになり、椅子にうなだれ、頭を抱え込んだ。

 脇では見張りの男が無表情で立っている。彼に警告しておくべきか。皇太子をサラエボに行かせるな、と。
 そうだ。ぼくは未来を知ってるんだ。これから何が起こるかを。
 そうなのだ。ヒトラーを今のうちに暗殺し、闇に葬り去ることだって可能かも知れない。奴は画家を目指してウィーンに来ていたはず。同じ道を志すものとして、今なら奴に近づくのもたやすいだろう。自分一人が犠牲になればいいんだ。たとえ殺人者になろうとも。
 いや、殺さずとも、ヒトラーが画家になれさえすればいいんじゃないか。手助けしてやろう。あるいは、平和集会にでも積極的に連れ出して洗脳するか。奴がウィーンで目覚めた反ユダヤ主義を、彼の思想から締め出してやればいいんだ。

 そうだ。歴史はぼくの手中にある。世界の運命を変えられる? 

 大いなる野望がわき起こる。今度は自分が神にでもなったような気分で、これから訪れるはずの未来を想像してみる。

 世界大戦の起こらない世界。平和な世界。

 しかし各国の紛争問題は? 皇太子がサラエボに行かずとも、民族問題が解決するわけではない。人類は、二度にわたる世界大戦で計り知れない尊い犠牲を払い、多くのことを学んだはずだ。

 ばくは鏡を見た。鏡よ……、ここでは何が映るのか。

 集中しろ、シュテファン。鏡がきっと、真実の道を見せてくれるはずだ。

 鏡に映った部屋の様子に、かすかなゆらぎが生じる。広がりゆくのは、見事なまでの青く、美しい空。

 まばゆい閃光。

 巨大なキノコ雲が、そこに……。

 ぼくは鏡から目を反らした。見なくても、その先はわかっていた。

 人類の滅亡。

 二度の大戦が起こらず、人間が学ばなかった為、いきなり第三次大戦レベルの、つまり世界規模の核戦争が起ってしまう。人類は、地球は滅亡するのか。

 絶望、絶望、絶望! ぼくは未来を知っているというのに、この世界を救うこともできないのか。むしろ、自分の行動が、この世界を破滅へと導いてしまうのか?
 運命の大きさと己の非力さと。ぼくは額に手を当て、絶望に打ち拉がれた。

 どこからか……。

 その時、聞こえてきた。音楽が。ピアノの音。鏡の中から。

 ユイがピアノを奏でている。《悲愴》の第二楽章を!

 絶望の中で見つけた答え……。答えはここにあったんだ。希望の道が。希望の未来が!

「鏡が気になるようだな」

 側近の言葉に、ぼくは立ち上がった。

「座っていろ」

 彼を刺激しないよう、とりあえず、座る。彼女のピアノが、彼には聞こえないのか? 

 どうするシュテファン。鍵はやはり音楽だった。ここから、この鏡から離れたら、もう元の世界には戻れまい。チャンスは今だ。今しかない。ぼくは再び立ち上がった。

「座ってろ!」

 側近が腰のサーベルをすらりと抜いた。

 手近に武器になりそうな物はない。鏡に飛び込むのは簡単だ。しかし後ろ髪を引かれる思いだった。では、何の意味があったのか。自分がここに来たことに。

「何事だ」
 皇太子が戻って来た。
「彼に刺激を与えるのは、賢明ではないと思うが」

「大公殿下、この者があちこち動き回るもので」
 側近は言い訳をしながら、サーベルをしぶしぶ鞘に収めた。

 皇太子がいる。生身の人間として。少なくともぼくは、さっき彼の自殺を止められたんだ。それだけで、充分じゃないか。たとえどんな状況であろうとも、目の前に死にゆく者がいたら、救うのが人情というものだ。たとえ歴史が変わろうとも。

「何か聞こえるか」皇太子が側近に尋ねた。

「カモメの鳴き声が」と側近。

 外ではカモメたちが飛び交い、気持ち良さそうに鳴いている。皇妃エリザベートはかつて、「ハイネ風」と添え書きをした詩の中で、自身をカモメにたとえていた。彼女の自由への憧れは、カモメに託されて羽ばたいていった。

「いや、音楽だ……」
 皇太子は落ち着きなく鏡のほうを見た。

「そうです。ピアノソナタ《悲愴》。ベートーヴェンの崇高な精神から生まれた音楽です」

 ぼくはゆっくりと鏡に近づいていった。

「そこを動くな!」側近が、今度は銃を抜いた。

「皇太子殿下」
 ぼくは銃口を恐れることなく進言した。
「この宮殿の回りを幸せそうに飛び交うカモメも、わたしたち、人間も……」

 目の前に、近い将来暗殺されゆく運命の人がいたら、警告するのが正義というものだ。たとえ歴史を大きく変えることになろうとも。

「いつか突然訪れるかも知れない死の運命に、逆らうことはできないでしょう。ですが、人間は自分の人生を、自身の手で、少しでも良い方向に導いてゆくことは可能なはずです」

「この者は何が言いたいのか」

「皆目わかりません。カモメが何だというのでしょう」

 鏡の中にハイデンベルク家の広間が、一心にピアノに向かうユイの姿がはっきり見える。

「皇太子殿下」

 ぼくは鏡のすぐ脇に立って言った。

「サラエボには、行かないように」

 鏡に手を触れる。いや、触れることはできなかった。手はすっと鏡の中に入り込んだから。

「決して、行ってはいけません」

 それだけ言い、反対の手でさっと敬礼し、ぼくはその場から退散した。

 鏡の中へ。

── 幸運を! 皇太子殿 ──。



1960年 ウィーン郊外 旧貴族の館


 手近にあるものなら何でも良かった。マントルピースの上にあった銀のしょく台をつかみ、台座の部分を思い切り鏡に叩きつける。彼らが追って来れないように。

 激しい音と共に、すべては砕け散った。粉々に。

「シュテファン!」

 ユイがピアノから離れ、駆け寄ってきた。

「あなたが、消えてしまったものだから……、その……、鏡の中に」

 立ち止まり、怯えたように一歩後退りしたユイは、それからぼくに飛びついてきた。泣きながら。

「どうしていいか、わからなくて。家には誰もいないし」

 震えている彼女を抱きしめる。
「もう大丈夫。すべて、終わったんだ」

「鏡はすっかり閉じていたから、何もできなくて……。でも、ひとつだけ」

 ぼくの腕はしっかり掴んだまま体を少し離し、けなげな瞳を大きく見開いて、ユイは言った。

「わたしにできることが、ひとつだけあるって、気がついたの」

「ありがとう」
 心からの感謝と愛情を込めて、ぼくは言った。
「だから帰って来れたんだよ。きみの音楽が、導いてくれたんだ」

 ユイは安心したかのように、再びぼくの胸に顔をうずめてわんわん泣いた。もう一生彼女を離すまい! と、心に誓う。

 しかし、これだけは確かめなければならなかった。

「ユイ、ひとつだけ聞きたいことがあるんだ。どうしても」

「はい?」

「第一次大戦は、起こったんだよね」

 ユイは顔をあげて目をぱちくちさせた。質問の意図がわからないらしい。そりゃそうだろう。ぼくは辛抱強く、ゆっくりと尋ねた。

「きっかけは、何だったか知ってる? 戦争が起きたきっかけは」

「まだ、ハプスブルクの話が続くの?」
 ユイが不安そうにぼくから身を離す。

「そう。ハプスブルクの話」

 歴史は、果たして変わっているのか。

「ユイ、お願いだ。教えてくれ。何が起こったのか」

 悲しそうなため息をついてから、彼女は答えた。
「オーストリアの皇太子夫妻が暗殺されたからでしょ。サラエボで、セルビア人の民族主義者に」

 内心がっかりしつつも、ぼくは安堵のため息をついた。歴史に何ら変わりはない。たとえ逆らおうとする者がいようとも。
 あのキノコ雲は、歪んだ未来。ぼくのおせっかいな妄想だったんだ。そして皇太子は……。

 思い出した。

 皇太子はサラエボ行きを拒絶したのだった。
 周囲も「危険だから」と止めようとした。しかし、皇帝がそれを許さなかった。

 皇太子は運命に翻弄され、逆らうことができなかった。ハプスブルクという巨大な帝国の中で。



 翌日、ぼくは車でユイを空港まで見送り、心にぽっかりと空いた穴を抱え、我がハイデンベルク邸に戻って来た。
 画家としてしっかり生計を立てられるようになったら、彼女をウィーンに呼び寄せよう。近い将来……、いや一刻でも早く。その為には、どんな努力も惜しむまい。空しい気分を必死で盛り立てる。

 祖父には何もかもを話し、かつてひどい目に合わせてしまったことを、心から詫びた。すべてはぼくのせいでした、と。

 ハプスブルクの鏡は──魅惑的だが危険なこの鏡は──、

 屋根裏にでもしまっておこう、ということで話は落ち着いた。

 鏡の取り除かれた額に白い布をかぶせ、誰にも見つからないような場所に……、そう、衣装だんすの裏がいい。
 かくして、ハプスブルクの額縁は、屋根裏部屋にひっそりと封印された。


「終わったよ」

 中庭で日曜大工さながらの道具に囲まれ、何やら熱心に作業をしている祖父の元に報告に行った。

「何してるの?」

「小鳥の餌台じゃよ。大分くたびれてきたようだから、新しく作り直そうと」

 鏡磨きの代わりとなるお楽しみを見つけてくれたというわけか。良かった。

「もっと家のことも色々とやらんとな。おや? もうお客さんがやって来たか」

 中庭の外灯の上に、一羽のカモメがちょこんと佇んでいる。群れからはぐれたのか。

「シュテファン、お前にお礼を言いに来たみたいだな」

「何の?」

「皇太子殿が晩年、動物保護の運動を展開したのは……」

 心臓が、ドクリと鳴った。

「ちょっと待って、皇太子ってどの皇太子?」

「かのフランツ・フェルディナント大公だよ。お前がカモメの運命について演説したのが利いたんだろうねえ。暗殺される前の数年間、皇太子は動物愛護に徹し、鳥類保護法に、狩猟規制──」

「そんな話は聞いたことが……」

 めまいがしてきた。まさか歴史が変わってる?

「おやおや、知らないわけがなかろう。教科書にも載ってる話じゃないか、歴史の本にも」

 最後まで聞き終えぬうちに、ぼくは屋内に飛び込み二階の書斎への階段を駆け上がっていた。
 歴史書の揃えてある本棚のガラス扉を開く。西洋史、ウィーンの歴史、ハプスブルク帝国、ハプスブルク史、ハプスブルク家。何でも良かった。手近な本をひっつかみ、フランツ・フェルディナントの項を開く。おしまいのほう──。

 狩猟の達人であった皇太子は、1910年以降、人が変わったように動物愛護に徹した。
 狩猟規制に始まり、鳥類保護法などを設立。
 シェーンブルン宮殿に併設の、動物園の管理にも積極的に参加する。
 特にウィーン川やドナウ川に飛来するカモメは、ウィーンにおける貴重な鳥として、餌の確保など、手厚く保護され今日に至る。


 一冊でも見れば充分だった。なんと歴史は変わっていたのだ! 

 居ても立ってもいられない。ぼくは叫び出したい気分でバルコニーに出て、遙かなドナウ川を見渡した。水面に夕陽がきらきらと反射する中、たくさんの水鳥たちが幸せそうに泳ぎ、飛び交っている。

 心と身体が、喜びで満たされていく。

 先ほどの外灯のカモメが手すりまで飛び移ってきた。くりっとした目でこちらを見るように首をかしげ、高い声でひと鳴きしながらさっと飛び立ち、仲間の元に旋回していった。ドナウのほとりに。
 彼女はエリザベートの化身だろうか。

 ぼくは微笑まずにはいられなかった。

 鏡の中に消えた人間をかいま見たことで、皇太子は何かを感じたに違いない。巨大な歴史の渦中に、少しばかりの波紋が生じたことで、小さな動物たちの世界に、平穏と幸せがもたらされたのだ。


 鏡よ。シェーンブルンの鏡よ。

 しばしの眠りにつくがいい。

 ハプスブルク宮廷の様々な人間模様を見つめ続けた末に、ささやかだが、大いなる役目を、お前は果たしたのだ。

 そしてこれからは夢を……、未来の美しい夢を見るがいい。

 いつか再び目を覚ます、その時が来るまで。




 Ende




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