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~ 楽譜に秘められた愛のメッセージ ~ ショパン 〈別れのワルツ〉 〈小犬のワルツ〉


 フレデリック・ショパン(1810~1849)の数ある伝記や膨大な手紙類をひもといてゆくと、どうやら彼は女性との厄介で複雑な恋愛よりも、男友達との熱き友情や、遠い故郷の家族への愛を遥かに大切にしていたようだ。
 しかし芸術家としての厳しくも繊細な環境や、病気がちな生活を無償の愛で細やかに、献身的に支える役割を担ってくれる女性の存在も欠かせない。39才という短い生涯の中、やはり「恋」はつきもので、幾人かの女性がショパンの人生を彩ることになる。

「名曲にまつわる愛の物語」のショパンの項では、彼の恋人とされる3人の女性に関わるワルツを2曲、紹介したい。

ワルツ 第9番 変イ長調 Op.69-1〈別れ〉

 ショパンの幼なじみで、いっときは婚約もしていたマリア・ヴォジンスカに捧げられた〈別れのワルツ〉として知られている。

 ショパンが祖国ポーランドから亡命先のパリに落ち着いて、5年の歳月が流れていた。
 1835年の夏、チェコの保養地カールスバートにて両親と感動の再会を果たしたショパンは、パリへの帰途途中、ポーランド時代から家族ぐるみで親しくしており、一家でドレスデンに移り住んでいたヴォジンスキ家に立ち寄った。10日間の滞在中、大変温かなもてなしを受けたショパンは、この上ない幸せを感じ、優しい一家と、美しく成長した娘のマリアに純朴な愛情を抱くようになる。

 よく知られるショパンの肖像画に、当時マリアが描いた水彩画があり、ショパンの自然な姿を捉えた貴重な資料となっている。マリアは絵や音楽の豊かな才能を備えた穏やかな性格の少女であった。

〈別れのワルツ〉はショパンが旅立ちに際して、もてなしの礼や愛を込めて贈った曲で、あくまでも「楽しかったし、幸せでした。また会いましょう」といった再会の期待が込められた意味合いでの「別れの挨拶」であり、恋人どうしの破局を意味するものではなかったはずだ。
 しかし個人的な思い入れはあった為か、生前には出版されず、ショパン亡き後、「未出版の作品は全て破棄するように」との本人の遺言に反して、親友にして優秀なサポート役でもあったフォンタナの手で出版された。その際フォンタナは速度を「 Lento = ゆっくりと 」と、指定しているが、マリアに贈られたショパンの自筆譜には「Tempo di Vals = ワルツのテンポで 」とされている。つまりフォンタナの指定よりも早めが正しく、このことからもショパン本人のニュアンスは、しばしの別れを思っての切ない感傷だけてなく、優しい思い出や、マリアと展開されるであろ恋の予感や、再会への期待といった想いが込められていたと考えられよう。

 翌年の再会でショパンとマリアは内々で結婚の約束を交わし、しばらくはマリアの母親も介した遠距離恋愛の文通が続くが、次なる再会の約束も果たされないままに、やがて婚約は自然消滅と化してゆく。婚約が幻に終わったと悟ったショパンは、マリアと彼女の母親からの手紙を青いリボンで束ね、その上に「我が哀しみ」と書いて自身の想いと共に封印する。
 この手紙の束の写真は、多くの伝記や研究書に載っており、「我が哀しみ」がことさら強調され、ショパンが生涯マリアを思い続けていたかのことく描かれているが、実のところはどうであろう? 
 例えば恋の破局から何年も経って「我が哀しみ」と書かれた手紙の束が引き出しの奥底からふと出てきたとしても、「もはや過去の話」とか、「今はそうでもない」などと、ご丁寧に書き改める者が果たしているだろうか?
 しかもこの曲を、ショパンはマリアだけでなく、後年、別の2人の女性にも各々捧げているのだ。

 こうした事実からしても、このワルツは、「切ない思い出」とか、「生涯愛し続ける永遠の女性との別れの曲」といった、今日定着しているような涙を誘う感傷的なイメージとは、本来は異なるのだろう。
 しかし何といっても〈別れのワルツ〉。
 この愛称は変わらぬままに、今後も愛され続けるに違いない。
 音楽が、こうして作曲者の想いからかけ離れ、後世の人々が各々の感じ方で受け取ることになるのは、ある意味、名曲にこそ課せられた宿命なのかも知れない。


ワルツ 第6番 変ニ長調 Op.64-1〈小犬〉

 マリアとの幻の婚約から数年の時を遡り、亡命青年ショパンの落ち着き先となった当時のバリに想いを馳せて頂きたい。
 思想や芸術において、世界の中心地であったこの街には、ポーランドからも王公貴族や詩人、音楽家など、既に大勢の亡命者が居を構えており、芸術家の集う社交サロンでも旧知の者の姿が見られ、ショパンは祖国に居るような錯覚を覚える程であった。
 その中の1人に、栗色の巻き毛の、すらりとした美貌のデルフィナ・ポトツカ伯爵婦人がいた。
 アマチュアながら素晴らしい歌い手で、ピアノの腕も相当なもの。知性や教養が高く気品に満ち、性格も素晴らしかったという絶世の美女は、多くの芸術家のミューズであった。ショパンからも、初恋の人コンスタンツィアへの想いから生まれたとされる(はずの?)ピアノ協奏曲 第2番を捧げられている。
 ショパンの死の床に駆けつけ、胸を打つ世にも美しい歌声で安らかに送った人物として、臨終の際の有名な絵にも描かれ知られている。
 ショパンの異国での新たな生活を支えた恋人とされているが、夫とは完全別居中とはいえ彼女が人妻である以上、交際は秘密にされ、仲間内でも沈黙が保たれていたようだ。
 ショパンの優れたピアノの弟子でもあったデルフィナ。音楽を深く理解していた彼女を、ショパンは1人の芸術家とみなして接し、自作品への想いを語り、特にバッハを弾き、バッハを暗譜することを強く勧めていた。
 世の男性陣に対してはファム・ファタル(運命の女=魔性の女)とも噂されたデルフィナであったが、年下のショパンに対しては常に優秀な生徒にして、洗練された大人の女性として接していた。
 そして恋人の関心が、幼なじみの純朴なマリアとの平穏な家庭生活を夢見ることに向けられると悟るや、潔くパリの屋敷を引き払い、長年別居中だった夫の元に帰ってゆく。
 こうしたデルフィナの気遣いから泥沼の破局とはならなかった為か、2人の友情は、ショパンが亡くなるその日まで大切にされた。

 デルフィナ、マリアと続いてショパンの人生に登場するのが、作家のジョルジュ・サンド。
 そもそもマリアとの破談は、婚約中の身でありながら、この男装の麗人と急接近しつつあることを、ショパンとは少年時代から兄弟同然の仲であったマリアの兄に、ショパン自身が打ち明けていたことも関係しているようだ。残された手紙の束「我が哀しみ」が1人歩きして、マリア親子にショパンが一方的に捨てられたようにも語りつがれているが、実はショパンの軽い気持ちからの不実が原因だったとも充分に考えられる。とはいえ本当のことなど、当人すら認識していなかったりするのだから、今日、恋人どうしの問題を詮索すること自体が無粋なのだろう。

 ジョルジュ・サンドもデルフィナ同様、芸術家や作家を虜にしつつ、彼らの才能を最大限に引き立て、最高の高みへと導く力のあるファム・ファタルであった。
 病弱のショパンを献身的に支え、作曲の為に最適な環境を整え続けた9年間で生まれた名作は数知れず。
 バラード、スケルツォ、ソナタ、舟歌、幻想ポロネーズ……。
 しかしサンドの2人の子どもを含む微妙な関係や家庭内の不和が、やがては深い溝となり、仲たがいに嫉妬と、互いの態度も次第に冷淡になってゆく。
 家庭という、ショパンが最も必要としていた身の置き場は失われつつあった。

 通称〈小犬のワルツ〉は、そんなショパンとサンドが共に過ごした最後の夏に作曲される。

 サンドが飼い始めた可愛らしい小犬が、自分の尻尾を追いかけて、くるくる回る姿から生まれた即興的で可憐なワルツ。
 この小犬、ヴィルトゥオーゾばりに素早く駆け巡る為か、当初「リスト」と呼ばれたが、大作曲家を小バカにしたような企みがリストご本人にバレたら大変と判断したか、改め「マルキ」と名付けられた。尻尾を追うしぐさは、尾にノミが住み着いていた為らしい。
 様々な誤解や意見の相違から2人の関係が悪化してゆく緊張状態の中で、ひとときの微笑ましい慰めを与えてくれたことだろう。

 やがて2人は充分な別れ話もせずに、いともあっさり破局を迎えるが、それはショパンにとって、ひとえに死の宣告ともいえる残酷な展開となりゆくのだった。
 サンドと別れてから亡くなる迄の2年間、ショパンは作曲のエネルギーを完全に失ってしまう。
 唯一の例外は死の前年、パリで最後の「伝説の演奏会」にて、親友フランショームのチェロとショパン自身のピアノで初演された〈チェロソナタ〉を作曲できたくらい。それほどまでに、彼女の影響力は大きかったのだ。

 ショパンとサンドの長い生活のおしまいに、しかもサンドのリクエストによって生まれたとされるこの名曲は、しかし皮肉にも、かのデルフィナに献呈される。
 このワルツの「変ニ長調」は、ショパンお気に入りの調でありながら実はさほど使用しておらず、デルフィナとの特別な意味合いが隠された調性という説もある。この期に及んでデルフィナに、あえて捧げたショパンの想いや如何に? 
 長年サンドに依存しすぎていた優柔不断な己と決別し、新たな人生に踏み切ろうとの願いを込めたショパンから、かつて自分を愛してくれた恋人へ向けた、大切な愛のメッセージだったのではなかろうか。




      小冊子「名曲にまつわる愛の物語」より






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