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ブラームス : ピアノ協奏曲 第1番 & 《ドイツ・レクイエム》 解説


※ 過去の公演プログラムに掲載された楽曲解説です


若きブラームスを支えた 3人の音楽家


 ドイツ古典音楽の流れを汲むロマン主義を継承する19世紀後半の作曲家、ヨハネス・ブラームス(1833〜97)。彼の若き時代の集大成ともいえる今宵の2作品をより深く理解する上で、要となる3人の音楽家がいる。

 ロベルト・シューマン(1810〜56)
 クララ・シューマン(1819〜96)
 ヨーゼフ・ヨアヒム(1831〜1907)

 いずれもブラームスが 20歳の時に出会っており、多大な影響を与え合い、生涯に渡り深く関わることとなる。

 ヨーゼフ・ヨアヒムは、ドイツの名ヴァイオリニストで、出身はハンガリー。指揮者、作曲家としても活躍し、優れた教育者でもあった。ブラームスに加え、シューマン、ブルッフ、ドヴォルザークといった名だたる作曲家らが彼にヴァイオリン協奏曲を献呈している。
 ブラームスより2つ歳上なだけだが、2人が出会った当初、ヨアヒムは既に確固たる地位を確立しており、人格も優れ、教養も豊かであった。まだ無名で定職もなかったブラームスを親身になって支えてゆく。

 そんなヨアヒムが、ぜひ会うようにと熱心に勧めたのが、言わずと知れたドイツ・ロマン派の大家、ロベルト・シューマンである。
「とてもじゃないが恐れ多い」と尻込みするブラームスであったが、ヨアヒムのみならず、他の多くの知人からも、

「シューマンは若い芸術家を大切にする」
「会った方がいい」
「会うべきだ!」
「会わなきゃダメだ!!」

と、繰り返し説得される。

 そんなブラームスであったが、ほどなくしてシューマンの未発表作品に触れ、その素晴らしさに圧倒されつつ、自分の作風にも通じる感性を見つけ出す。大感激の勢いに任せ、引っ込み思案な青年もようやくシューマンを訪ねることに。

—— すると果たして彼は来た。生まれながらにして優美の女神や英雄らに見守られ続けてきた若者が、尊敬すべき著名な大家(=ヨアヒム)の推薦によって。その名をヨハネス・ブラームスという ——。

 このような紹介の仕方で、シューマンは自分が発行していた音楽評論誌『新音楽時報』に、10年ぶりに筆をとり、「新しき道」と題したブラームスへの賛辞を散りばめた論文を発表した。

—— 彼がピアノに向かうと、冴え渡る不思議な魔力に否応なしに我々は引き込まれてしまった。演奏ぶりは全くもって天才的。悲哀と歓喜を縦横無尽に交差させ、ピアノをオーケストラのように支配した。
 とうとうたる音楽は流れ落ちる滝となり、その上には晴れやかな虹。岸辺では蝶が舞い踊り、ウグイスの歌声さえも聞こえてくる。

 この先、彼の魔法が益々徹底し、合唱やオーケストラに潜む絶大な威力を導き出せた暁には、精神世界の神秘の扉は解放され、更なる素晴らしき光景が広がりゆく様を、我々は目の当たりにするであろう ——。

 シューマンは早速なじみの出版社に連絡を取り、ブラームスの作品の出版に尽力する。

 互いの作品演奏に、果てなき音楽探究や芸術談義。芸術家の集うシューマン家のサロンにすっかり溶け込んだブラームスは、シューマン夫妻に心から感謝すると共に、この家庭に強い憧れを抱き始める。その想いは、やがてシューマンの愛妻で、名を馳せた現役ピアニストでもあったクララへの深い愛情へと変わりゆく。

 いっときはクララへの抑えきれない熱情にもかられたブラームスであったが、夫妻との出会いから僅か3年後のシューマンの死は、逆に青年の未亡人への切ない恋心を永遠に断ち切らざるを得ない状況に追いやってしまう。
 互いの想いを抑えるべく距離を保ちながら、最も大切な家族同然に愛すべき友として、生涯支え合う形を2人は選択する。

 それほどまでに、シューマンは死してなお、偉大すぎる存在であったのだ。

 晩年、クララが亡くなると、ブラームスはみるみる衰弱し、後を追うように1年足らずで没してしまう。


ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 Op.15


「私が見た夜の夢を思い浮かべてみて下さい。かつて失敗に終わった、あの交響曲をピアノ協奏曲に書き直し、それを演奏していたのです!」

 ある日、ブラームスはクララにこのような手紙をしたためた。
「失敗に終わった交響曲」というのは、前年に作曲した〈2台ピアノの為のソナタ〉を、交響曲化しようとしたものの、うまくいかなかった経緯のことである。
 2台ピアノ用の原曲は、そもそも敬愛するクララと一緒に演奏するという、大いなる喜びのもとに作曲されたとも考えられ、クララもたいそう気に入ってくれたので、これを管弦楽曲という更なる高みに発展させたいという思いが募ったのであろう。それまでピアノ曲や室内楽曲程度しか書いていなかったブラームスにとって、大作のオーケストレーションは最大の課題であった。

 交響曲版は失敗したとしても、しかし協奏曲なら? 潜在意識が夢でヒントを与えてくれたのか。

 協奏曲版の作曲にあたっては、何しろ当時はまだ管弦楽曲に不慣れであったブラームスなので、親友かつ先輩格のヨアヒムに全面的な協力を依頼して、遠慮のない助言や容赦なき指導を求めることにする。
 往復書簡が幾たびも幾たびも行き交い、永遠と思われるほど互いに辛抱強く推敲を重ね続け、ついに満足のいく作品が完成する。
 それはピアノの超絶技巧が際立つ絢爛豪華な類のものではなく、シューマンも目指していた「ピアノとオーケストラの自然な融合」が、理想的な形で継承されている。

 ブラームス本人のピアノ、この曲を既に作曲者並みに熟知していたヨアヒムの指揮による初演は1959年で、夢の啓示を受けてから、実に4年近くが経っていた。


第1楽章 

 ティンパニのトレモロ、及びコントラバスを主体とした低音楽器による長い持続音をベースに、第1ヴァイオリンとチェロの力強いテーマが重なる劇的な冒頭。
 この手法はシューマンの交響曲第4番でも使用されており、ブラームス本人による《ドイツ・レクイエム》の第3楽章にも見られる。

 いつしか激しさは弱まり、ピアノがそっと語りかけるように、悲哀に満ちた表情で演奏に加わってくる。その後、ピアノだけでゆったりとした上昇音階による憧れに満ちた第2主題が奏でられるが、これはシューマンなどのロマン派でしばしば見られる音型で、ブラームス自身も、同じ頃に作曲された弦楽6重奏曲などでも使用している。

 憧れの主題は様々な展開を見せながら次第に発展。ブラームス作品ではお馴染みの突然の激しい展開ともいえるピアノによるオクターヴの連打から、静と動を繰り返しつつ勢いを増してゆき、やがてはピアノとオーケストラの美しい掛け合いが、鮮やかな風のごとく一気に駆け抜け、夢のようなシーンが描き出される。

 こうして、まさに疾風怒濤の精神と、儚き夢の世界とが交互に現れては、激情のクライマックスを迎えゆく。

第2楽章

「優しげなクララの肖像画を音楽化したもの」と作曲者本人が語るように、穏やかな慈愛に包まれていながら、彼女へのどうしようもない複雑な憧憬の想いも随所に見え隠れする、聴く者の胸に深く染み入る、ロマン的、幻想的な楽章である。

 冒頭のピアノパートに「幸いなるかな 主に結ばれて死する者は」というラテン語による祈祷文。推敲の段階で書かれたり削られたり、再び書き加えられたりと繰り返される程に、書くべきか書かざるべきかの葛藤があったようだ。
 第1ヴァイオリンによって奏でられる第1主題が、16世紀の作曲家パレストリーナのミサ曲の旋律の引用とされることからも、ブラームスが、この楽章に何らかの宗教的な要素を重ねていたことが伺い知れる。

第3楽章

 上昇音型の活気ある主題が、ピアノによって勢いよく紡ぎ出され、オーケストラに引き継がれる。
 主題は新たに提示されるごとにスケールを高め、カノン風、フーガ調と、勢いと緊張感を保ちながら壮大さを増してゆく。二度に渡る劇的なカデンツァを経たピアノに導かれ、全合奏で力強く終結する。

 シューマン家の膨大な蔵書により、バッハを中心としたバロック音楽への造詣を深め、ヨアヒムと共に徹底的に対位法を研究した成果が、ここに見事に実が結ばれる。
 ブラームスの真摯な創作姿勢や表現の方向性が決定づけられた、重要な作品と言っても過言ではなかろう。



ドイツ・レクイエム Op.45


 1856年、短期間のつき合いながらもブラームスにとっては偉大なる恩人で、心から敬愛していたシューマンが亡くなった。
 深い喪失感を経験したブラームスは、シューマンへの追悼の想いを抱きつつ、未亡人となったクララや夫妻の子どもたち、そしてシューマンを愛していた多くの芸術たちの心の慰めになればと、レクイエムの作曲に着手する。

 しかしながら、ピアノ協奏曲 第1番で成功を収めたとはいえ、オ-ケストレーションの技術やセンスに関してはまだまだ未熟であったブラームスのこと、ピアノ協奏曲の前身であった〈2台ピアノの為のソナタ〉作曲時に書いたものの、実際は省いて使用しなかった「スケルツォ」の楽章を転用するなど一部を書いただけで、壮大な構想はいつしか頓挫する。

 レクイエム創作意欲が再燃したのは、それからゆうに9年後、最愛の母親を亡くしたのがきっかけであった。

 長い熟成期間を経たことで、死者よりも、むしろ生者の為のレクイエムという方向性も定まり、一部の曲によるウィーンでの試演の不評点を徹底改善するなど、時間をかけ意欲を持って完成させる。
 それはピアノ協奏曲同様にバロック音楽の多大な影響が根底に見られる、ブラームス最大の声楽作品となった。

 レクイエムといえば通常は、死せる魂の安息を願うカトリック教会の祈祷文に基づく典礼用のミサ曲を示すものだが、ブラームスのこの作品は、作曲者本人に馴染みの深いルター派の聖書から得られたドイツ語による聖句から成り立つ、演奏会の為の楽曲となっている。
 タイトルの「ドイツ」の言葉は、ドイツ国民主義といった概念は含まず、単に「ドイツ語による」という意味合いで、これはメンデルスゾーンなど先人の作曲家の例に習っての判断であった。
 死者の為の祈りというより、死者を見送り現世に生きる者への慰めや慈愛に満ちた聖句が、ブラームス自身によって、新約、及び旧約聖書から選ばれている。キリスト教に根ざしながらも、冷静に死を見つめ、生を尊ぶ思想が語られる。

 初演は1868年。ブレーメンの大聖堂にて、まずは完成済みの6曲のみが上演される。ヨアヒムはもちろんのこと、クララも長旅から駆けつけ、疎遠がちだった父親や、大切な親友らが見守る中でブラームスは指揮を執り、未完だった第5曲目の代用として、ヨアヒムがシューマンの〈夕べの歌〉を奏で、ヨアヒム婦人がヘンデル《メサイア》からアリアを歌った。

 初演は大成功を収め、全曲の完成、及び初演は翌年に持ち越されるものの、ブラームスは確固たる地位と名声を確立する。


「指揮棒を手に舞台に立つヨハネスの姿に、愛するロベルトの、かつての予言を思い起こさずにはいられなかった」
と、クララは誇らしげに日記に書いている。


── 彼の魔法が益々徹底した暁には、更なる素晴らしき光景が広がりゆくであろう ——。

 シューマンが若きブラームスを楽壇に紹介した「新しき道」の論文から15年の時を経て、ここに予言は成就したのであった。


第1曲(合唱)「幸いなるかな、悲しみを抱く者は」

 イエス・キリストの有名な「山上の垂訓」の言葉に始まり、死者に先立たれて悲しむ者を慰め、種を蒔く者の不安や苦労、収穫時の喜びといった生命の希望も語られる。静かな慰めと、この上なき幸せ。まさに天上の音楽である。
 この曲中、ヴァイオリンは全く奏されず、厳かな低音の響きに合唱がそっと寄り添う形となる。こうした独特の効果を狙った編成を、ブラームスは弦楽6重奏曲などで幾たびか使用している。

第2曲(合唱)「人は皆、草のごとく」

 厳かな葬送の行進に始まり、人生のむなしさが描かれていく。天からの声が届けられるのを信じ堪え忍ぶことで、やがては神の栄光が、力強いフーガと共にもたらされる。

第3曲(バリトン、合唱)「主よ、知らしめたまえ」

 バリトン・ソロの「主よ、教えたまえ、いかばかりに我が終わりを迎えるか」という問いかけに、続く合唱も習い、現世と訣別する者の神への願いが歌われる。その答えは、「正しき者の魂は神の手に委ねられている」という圧巻のフーガが導き出す。

第4曲(合唱)「どれほど愛されていることでしょう、御身のおられるところは」

 神の居場所に想いを馳せ、神と永遠に寄り添える安息の地を求める者の希望が晴れやかに歌われる。

第5曲(ソプラノ、合唱)「汝ら今は憂いあり」

「今は悲しんでいるあなた方でも、私に再び会えることで喜びに満たされるでしょう」という、死を前にしたイエスの、復活を予言する弟子たちへの言葉が、ソプラノのソロによって語られる。
 弱音器をつけた弦楽器の柔らかな音色が、死にゆく者への慈愛をより深く表しているよう。

第6曲(バリトン、合唱)「我らこの地上に永遠の都はあらず」

「この地上に永遠の都などありはしない」
 人生の空虚さを嘆く合唱に、バリトンのソロが、
「見よ、我は汝らに極意を明かさん」
と、死を恐れる必要のないことを説いていく。

 栄光のトランペットが高らかに鳴り響くと、死者は復活。生が死と戦って勝利する「最後の審判」では、神の栄光を賛美する壮大なフーガが展開される。

 しかし、ここで大団円のフィナーレとはならず、1曲目と旋律的にも思想的も対を成す、厳かなる終曲へと導かれゆく。

第7曲(合唱)「幸いなるかな 主に結ばれて死する者は」

 冒頭の旋律の回帰により楽曲全体がまとめられつつ、1曲目のテーマである「(残されて)悲しむ者への幸い」に対しての、「(神に認められて)亡くなる者への幸い」というイエスの教えが語られ、敬虔な思いに満たされつつ全曲が閉じられる。



解説 :  森川 由紀子


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