「ハプスブルクの鏡」 短編ファンタジー(全4章) ①
ハプスブルク家
中世の神聖ローマ帝国時代より近代に至るまで、オーストリアを中心に 650年に渡り中欧に君臨。
啓蒙君主マリア・テレジアの末娘、マリー・アントワネットがフランス王家に嫁ぐなど、数々の政略結婚を繰り返し、戦争を平和的に回避しつつ勢力を拡大してゆく。
優れた統治力に加え、芸術の才に長ける皇帝も歴代に多く、壮大な建築物から絵画、彫刻、音楽や文学、あらゆるバロック芸術の発展に貢献。首都ウィーンを、国際的な文化都市へと導いた。
事実上最後の皇帝とされる、フランツ・ヨーゼフ1世の身内はことごとく不幸な死を遂げゆく。
弟は処刑、息子は自殺、妻は暗殺、甥も暗殺され、それが第一次世界大戦の勃発を招く。
民族運動の高まり、及び第一次世界大戦の敗北に伴い、帝位を失い崩壊。
美貌の皇妃エリザベートの物語や息子ルドルフの心中事件は、今日において映画やミュージカル、バレエなどの題材にもなっている。
「ハプスブルクの鏡」①
「確かに似てはいる」
皇太子はわたしを見てきっぱり言った。
「だが、違う男だ」
「ですがハイデンベルクと名のつく若い男性は、彼しかいないのです」
わたしを取り調べた、皇太子の側近らしき男は意味ありげにつけ加えた。
「少なくとも、現在のわが国においては」
「スパイ容疑については? サラエボの民族主義者との関わりは?」
「いっさいが白です」側近は胸を張って答えた。
「彼は平凡な貴族の一人にすぎません」
「では、あの男は誰だったのか……」
皇太子は、遠い瞳でつぶやいた。
最初で最後だった、その時が。
オーストリア皇太子、フランツ・フェルディナントにわたしが会ったのは。
四年後、彼がサラエボで不幸な死を遂げようとは、
それが第一次世界大戦の引き金になろうとは……、
知る由もなかった。
~ エルヴィン・ハイデンベルクの回想より
1960年 ウィーン郊外 旧貴族の館
── 鏡が割れると、その家では不幸が七年間続くという ──。
広間の大鏡が割れた。
長年鏡を磨くことを日課とし、大切にしていた祖父の落胆は大そうなものだった。
「それはヨーロッパの言い伝えですか?」
先の言葉をつぶやき、がっくりとソファに沈み込んだ祖父を気遣うように、ユイが尋ねた。
「単なる古い迷信さ」
うなだれている祖父に代わって、ぼくは答えた。
「鏡は自分たちの真の姿を映し出す神聖なものだから、粗末に扱うとバチが当たりますよ、ということ」
ユイは我が家に短期間下宿している、日本から来た音楽家の卵。目下ウィーンにおけるピアノコンクールに挑戦中。
初めての異国の地で緊張していたせいか、打ち解けるまで少々時間がかかったが、彼女の笑顔は最高に素敵なんだ! もちろん、ピアノもだけど。
「わしの命運もこれにて尽きたか……」
「オーパは、ぼくなんかよりずっと長生きしますよ」
ぼくは祖父に説明した。
「この鏡は自分で勝手に割れたんだから。誰かが不注意で割ったのではなくてね」
ピアノの音に共鳴したかのように、昨日、突然ひび割れてしまった大鏡。
「だから言い伝えなど気にしなくても。きっと寿命だったんですよ」
「鏡が老朽化するなんて、あるのかしら」
ユイが不安げに言った。
「まさかわたしがガンガン弾きすぎたせい?」
「そんなこと。鏡はぼくが弾いてたら割れたんだ」
まるで何かの想いがはち切れたように。
「古い鏡だし、この際、額縁ごと処分して、新しいモダンなタイプに取り替えても──」
「いかん!」祖父が勢いよく立ち上がった。
「捨てるなんて……! この鏡は、ハプスブルク家から譲り受けた、由緒ある、貴重な品なのだ」
両親からも誰からも、生まれてこの方そんな話は聞いたことないぞ。
「いったい、どういういきさつで?」
「固く命じられていたのじゃ。誰にも話すなと」
遠い過去を振り返るように、祖父は深いため息をついた。「だが、もう時効じゃな」
祖父は静かに語り始めた。
「シュテファン、わたしが25歳、ちょうどお前と同じ年の頃、あれは今から50年前のことだった」
1910年 ウィーン
数日間、何かしら落ち着かない日々が続いていた。そしてふと、気づいたのだ。
── どうやら尾行されてるらしい ──。
当時から、ウィーンはスパイの巣窟と言われていた。石を投げればスパイに当たる、というほどに。しかし心当たりなど、何もなかった。
街を歩けば怪しい影が数メートル背後で動き始め、カフェーでも公園でも、新聞ごしにこちらを伺う謎の男がいる。この館の周辺にも、夜通し見張りが立っているようだった。わたしは二四時間体制で監視されていたのだ。
家族には黙っていた。ターゲットは自分のみ。無駄に不安がらせる必要はなかろう。
職場の周辺にも、奴らは現れた。信頼のおける同僚に打ち明けておくべきか? とも考えたが、巻き込まれた際、迷惑をかける──、どころか身の危険にさらされかねないので、やめておいた。
街中に張り巡らされた狭い路地をダダッと駆け抜け尾行を巻き、奴らの鼻を明かしてやりたい誘惑にかられるも、不審な行動を取ればかえって不利に働くだろう。
わたしはひたすら平静を保つ努力をした。
しかし忍耐力も限界だった。ある昼下がり、わたしは突如ふり返り、尾行の男につかつか歩み寄って親しげに、できる限りにこやかに尋ねてみた。
「どうしてわたしを付け回すのですかね?」
男は何も言わず、顔色ひとつ変えずに、付近に潜んでいたらしき仲間に片手を挙げて合図を送った。
すぐに馬車が現れ、わたしは容赦なく目隠しをされ、どこぞやに連行された。敵は巨大な組織に違いない。国家の陰謀か? あるいは反勢力か? わたしは利用されるのだろうか。縛られてないだけ、もっけの幸いというものだ。必死に気を落ち着かせる。
馬車はウィーンの街中を無駄に走り回った挙げ句──それがスパイのやり口だ。こちらの方向感覚をかく乱する為に──、長くまっすぐな道を進んで行った。
おそらく西の方向へと。
午後の陽光が馬車の窓、左斜め前方より差し込んでいたので、目隠しされていても、そうとわかった。初歩的なミスだな。これしきのことが素人にもバレるのだから、奴らは意外とマヌケらしい。
ほどなくして馬車から降ろされた。
広々とした空間。カモメの鳴き声が聞こえていた。階段を少し上り、建物内へ。目隠しのまま歩かされる。よくとおる足音の響きは、天井の高さを物語っていた。
どこかの宮殿に違いなかろう。
ようやく一室に落ち着き椅子に座らされ、目隠しを外されると、目の前に少年のように若い軍人が一人立っていた。わたしよりずっと年下に見えたが、瞳は油断のない鋭い光を放っていた。服装や物腰からして、身分や階級は、かなり高そうだ。
彼は尾行や誘拐の失礼を慇懃無礼に詫びたうえで、時の皇太子、フランツ・フェルディナント大公の名において、わたしを尋問することを宣言した。
何ということだ! 相手はハプスブルク帝国だったのか。みみっちいスパイ組織などではなかったのだ。こちらがどうあがこうと、勝ち目など到底なかろう。
尋問の内容は、ありきたりのことばかりだった。
生い立ち、家族構成、出身校、得意分野、交遊関係、仕事の内容、趣味や日常における行動範囲、政治的思想、酒や食事から、はたまた女性の好みなど。
やましいことなど何ひとつないのだ。わたしは黙秘もせず、問われるままに洗いざらい何でも喋りまくった。
同じ内容の質問が、少々形を変え、何度も繰り返される。おそらくわたしが嘘をついていないか、確認する為であろう。
── どうせすべてはお見通し。どの項目も、とっくに調べはついてるんだろう ──。
などという挑戦的な言葉は呑み込み、わたしはあくまでも素人っぽく、善良で平凡な一般人を演じ切った。何せ本当にそのとおりなのだから。
氷の表情の取調べ官は、わたしがいつまでも尻尾を出さないので、いらつきを隠せない様子だった。
ざまあみろ。有力な手がかりひとつ、引き出せないじゃないか。きみらは相手を間違えたのだよ。
ついに容疑が晴れたのか、数時間に及ぶ尋問はようやく終わりを告げ、お次は皇太子との謁見、という難関が待ち受けていた。
部屋から出される。今度は目隠しなしで。
街からの方角、内装の豪華さ、スケールの大きさ、そして窓から見える庭園の様子からして、ここがシェーンブルン宮殿だと知った。ハプスブルク家の夏の離宮。皇帝の居城。
時は1910年。
既に弟はメキシコで革命軍により処刑、息子は自殺、最愛の妻までが暗殺。身内を相次いで亡くした皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、
── 何もかもが我が身にふりかかる ──。
と嘆き、晩年をウィーンの中心街にある王宮よりも、このシェーンブルン宮殿にこもるように、ひっそりと過ごされていた。
息子亡き後、皇位継承者となった甥のフランツ・フェルディナントは、反対を押しきって身分違いの恋を貫いたが故に皇帝の怒りを買い、王宮や、この宮殿に住むことは許されていなかった。
その皇太子が何故、シェーンブルンに?
「ただ、お会いするだけで良いのです」
取調べの青年が釘を刺した。
「余計なことは何も言わないように」
そう、なんら恐れることはないのだ。わたしはエルヴィン・ハイデンベルク。貴族としての誇りをもって、正々堂々と謁見に臨もう。
当時の貴族といえば軍人か外交官が多く、文化関係の仕事に携わっているわたしのような身分は、多少不利に働くかも知れないが、致し方ない。
通されたのは格式張った謁見の間などではなく、何のへんてつもない書庫のような部屋だった。この会見が極秘のものであることは明らかだ。
その御方は、奥の壁際、豪華な蔵書が並ぶ本棚の手前に無造作に立てかけられた等身大の絵を眺めておられた。
彼──皇太子殿下──は、振り返り、穴の空くほどわたしを見据えて言われた。
「似てはいるが違う男だ」
「ですが閣下、ハイデンベルクと名のつく同じ年の頃の青年は、彼しかいなかったのです」
どうやらわたしは人違いをされたらしい。
セルビア民族主義者がどうのとか、秘密結社「黒い手」がどうのこうのと話しておられるが、バカげた話だ。声を大にして身の潔白を説明したかったが、警告どおり、ひたすら口をつぐんでいた。
気を紛らわそうと、わたしはさりげなく室内を見渡した。そしてその一角に奇妙な違和感を覚えた。
── 何かがおかしい? ──
空間が歪んでいる? ように見えたのは錯覚で、隅に立てかけられた額縁に、絵が入っていないから不自然なのだ。
皇太子が見ていたのは絵ではなく、背後の本棚が絵のように透けて見えるだけの、ただの額だったのだ。黄金の縁飾りがそれは見事で、それだけで、美しい調度品のようだった。
わたしの興味を察したかのように、皇太子はその時点で初めて直接話しかけてこられた。
「その額を通り抜けられるか?」
果たしてこれは、一種のワナか?
はたまた何かの罰ゲームか?
皇太子も取調べ官も軍人らしく、腰に銃を携えている。額縁を抜けようとした途端、背後からズドン! と殺られるのか? それともあの見事なサーベルで、ズサリと切られるのか?
やがてドナウに浮かぶ、身元不明の死体。そして事件は迷宮入り。
緊張は極限にまで達したが、わたしはできる限り平静を装い、その申し出に応じることにした。
「仰せとあらば」
取調べ男──話しぶりからすると彼は皇太子の側近らしい──が、額を部屋の中ほどにずらし、枠をしっかりと支え、わたしを促した。
皇太子は始終穏やかだったが、その時ばかりはわたしを見つめる瞳が、異様なまでの残忍さを放っていた。狩りの獲物を狙うような……。
わたしは二人に背を向けぬよう額の背後に回り、縁に足を引っかけてぶざまに転んだりしないよう、細心の注意を払いつつ前方へと抜けて見せた。両腕を広げ、バカ丁寧にお辞儀をする。これにて、額抜けの曲芸終了。
しらけた様子の皇太子は、わたしを下がらせるよう側近に合図した。
何とも奇妙な会見だった。
「せっかくですから、宮殿を少し見学させてもらえませんかねえ」
という言葉を謹んで、わたしは大人しく家に送り返された。
この謎の体験を、家族や仲間に言い触らしたかったが、側近の若造に厳重に口止めされていた。
数日後、彼が我が家を訪れた。等身大の鏡を伴って。それはシェーンブルンにあった、あの額縁に、面取りを施した見事な鏡がはめ込まれたものだった。
「ハプスブルクの鏡だ。大切に扱うように」
わけがわからない。
「どうしてわたしに? あの茶番は何の意味が?」
「聞かないほうが、身の為ですよ」
厳しく言い放ち、彼は馬車に乗りかけた。しかし思い直したように振り返り、ひとことだけ言い添えた。
「それはあなたが、『ハイデンベルク』だからです」
「ハプスブルクの鏡」② へ続く。