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[#私にとってはたらくとは ] 原始人にとってはたらくとは?

現在の私の「はたらく」は、妻と二人でやっているトリミングサロンです。妻は幼い頃から心も体も病んでおり、私以外に理解者もおらず、ずっとメンタルの薬を飲みながら学校に通っていました。専門学校を卒業しトリミングのお店に勤め始めた頃には、心臓の薬もプラスされていました。なので現在の自営業というスタイルはマイペースに働けて本人にとってすごく良かったと思います。私は特にトリミングの技術があるわけではないので、主な「はたらく」はシャンプー&ドライや掃除、経理その他の雑用、そして妻のメンタルケアです。要は総合的に妻を支えることなのですが、これは他の人にはできないこと、私にしかできない「はたらく」だと思っています。

我々のお店は非常にシンプルです。トリミングが上手だったらお客さんが来るし、下手だったら来ないというだけです。商品を売るわけでもないので在庫や流行といった要素もありません。そんなに物欲もないし子供もいないため、大儲けしようとかお店を大きくするつもりもありません。SNSで営業活動という要素もないのです。完全に妻の「はたらく」は、本人のやりたい仕事内容やペースによって構成されています。そして私もなるべく妻がそこに集中できるようなサポートをしています。なので家事も全部やります。妻の「はたらく」はベストな状態だなとお互い思っています。でも普通はそうはいきませんよね。「はたらく」は苦痛にまみれているという人のほうが多いと思います。自分もそうでした。それはなぜでしょうか。

https://note.com/yuki1192/n/nd684c50cadf9?magazine_key=m83ac0d58f5d0

我々の世界は複雑になりすぎたと思います。本来「はたらく」とはシンプルに「他人ができないことを代わりにやる」だと思うのです。例えば我々が原始人だった頃は、群れの中でパワー型の人がヒョロい人の代わりにマンモス狩りに行き、ヒョロい人は石器を作ったりドングリの皮をむいていたはずですよね。そしてその中で特に石器作りが上手な人はよその群れから「石器作ってくれウホ」と頼まれて、作ってあげると「ありがとうウホ!」とマンモスの肉や綺麗な貝がらをもらっていたのです。これが「はたらく」の基本ではないでしょうか。

https://note.com/yuki1192/n/n50267e4917f2?magazine_key=m0b7b30a5d458

でもそれが文明の進歩とともに複雑化して、貝がらをもらうために得意じゃない人も石器を作らなくちゃいけなくなったり、他人を操るのが上手い人が石器職人をいっぱい集めて作らせて、しかしもらった貝がらを独り占めしたり、せっかく作ってもらった石器のクオリティにクレームを入れる人が出てきたり、そういうのを見ていたら「はたらく」ことが嫌になったり、逆にはたらきすぎて病気になったり、もはや石器を作らなくても貝がらをもらえる仕組みを構築する人が出てきてしかもそれが時々リスペクトすらされているのが現代だと思いませんか?

そうなってしまうのは、最初にあった「ありがとうウホ!」の不足なのではないかと思うのです。つまり敬意です。自分は石器を作れないけど誰かが石器を作ってくれた!ありがとうウホ!ということです。他者に対する敬意ですね。これは逆に、自分も彼らが出来ないマンモス狩りをやっているからありがとうウホと言われるに値する人間だウホ!ということでもあるのです。つまり自己に対する敬意ですよね。我々で言うと、妻はトリミングという飼い主ができないことを代わりにやっています。それで飼い主は「ありがとうウホ!」と貝がらをくれます。私はその妻の下支えという妻自身ではできないことを代わりにやっています。そして妻は「ありがとうウホ!」と貝がらをくれます。それで私はマンガを買ったりします。さらに、綺麗ごと抜きで言うと他者を支えるために日々生きるとは大変なこともあるので、私は整体やカウンセリングのお世話になることもあります。これも私自身に出来ないケアを代わりにやってもらっていますよね。なので私も「ありがとうウホ!」と貝がらをあげるのです。さらにはこの文章を書くのに使うPCや発表するnoteというサイト、それらをつなげるインターネットという仕組み、全部自分が作れないことを誰かが代わりに作ってくれたのです。

https://note.com/yuki1192/n/nb507d4c31698?magazine_key=mc91e32b10c3b

世の中が複雑になるとそれが見えなくなります。すると「はたらく」がいびつになります。私の友達はみんなブラック企業に勤めています。我々のお店には先日クレーマーが来て2時間ほど詰められました(妻には避難してもらいました)。逆にひきこもりになってしまった知人たちもいます。悲しいことにどれも現代ではありふれた現象ですよね。その原因は他者への敬意が薄れたために石器を作ってもらうことの意味を忘れてしまっただけでなく、自己への敬意も薄れてしまったためにそういうネガティブな現象を受け入れてしまっていることだと思うのです。私たちの世界はみんなの「はたらく」で構成されています。日々シンプルな仕事をしているとすごくそれをクリアに感じます。私が妻を支えるという「はたらく」ができているのも、妻の「はたらく」への敬意です。同じように、我々が今着ているTシャツ、それを買ったお店の店員、そこに行くまでの電車の電力、その発電所の作業員、…が食べていたお弁当を作っている工場、みんな「はたらく」ですし、そのサイクルのどこかに私たちもいるのです。別に貝がらがもらえなくても、古くなったTシャツを袋にまとめて捨てるのだって「はたらく」です。原始人でいえばドングリの皮むきと同じポジションですよね。

日本は労働時間が長いので、はたらく=人生になりがちです。それが苦痛にまみれていたら、人生が苦痛にまみれているということになってしまいます。なので、偉い人もそうでない人もみんなが一度原始人に戻ったつもりで周りの「ありがとうウホ!」を感じ直すと、少し世界が優しくなるのではないかと思うのです。ブラック企業でブイブイいわしている経営者だって、その履いているパンツは誰かが代わりに作ってくれたものなのですから。

https://note.com/yuki1192/n/na341b814ea31?magazine_key=m83ac0d58f5d0


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