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【後編】自然農法から学ぶ豊かな生活づくり〜生態系は春の訪れを知っている〜

前回の記事にて、昨年の年末に無事、ネギを収穫し終えた私ですが、その後、長い長い冬が待っていました。

田んぼと畑、土との関わりの共通点

年が明けて、2020年1月。

昨年まで、父が主導していた兼業の米作りを、今年から私が継いで行っていくことになりました。

普段の仕事の拠点である京都と、実家の田んぼがある三重県との二拠点生活が、思わぬふとしたタイミングで始まることとなりました。

ただ、多くの点で自然農法的な土や自然との向き合い方と、稲作における土や自然との向き合い方に共通点も多く、畑で培っていた学びを活かす良い機会にもなりました。

例年、5月の連休中に実家の田んぼでは田植えを行っていました。

面積で言えば、3反(約3,000㎡)×2枚+0.5反。

基本、人力で行っていた京都の畑の面積とは大違いです。

この約6,000㎡の田んぼに対し、おおよそ4〜5回くらい、植え付けを行うまでの期間にトラクターによって土を耕すのですが、このプロセスは、基本的に畑で行う天地返しと同じ原理です。

天地返しは、表土と深層の土を耕し、反転させることで様々な効果を生みます。

①表土の近くにあった有機物の分解を促進する

②深層の土にいた好気性微生物が活性化し、有機物の分解促進と、作物の養分となる窒素生成を促す。

③微生物の働きにより、土が団粒構造となり、保水性、透水性のある土壌となる

米作り素人である私は、↑の記事も元に、天地返しや土作りについて学んでいたのですが、これらの記述は、畑作りにおいて学んでいたことそのものと言える内容でした。

土は、有機物(枯れた雑草)やそこに住む微生物、虫たちの働きによって豊になるのだと、ここでも学んでいたのでした。

とある調査によれば、田んぼには5800種を超える生き物が住んでいるそうです。

田んぼという生態系に住まう、生き物たちの多様性

たとえば田んぼには、私たち「農と自然の研究所」で、5868種の生きものがいることが明らかになりました。虫だけに限定すれば、「害虫150種、益虫300種、ただの虫400種です。「ただの虫」が圧倒的に多い。つまり、有用でも有害でもない生きものが圧倒的に多いわけです。草もそうです。だから田んぼは「自然な」感じがするのです。出典『「農業を株式会社化する」という無理』p140-141

ただし、環境の変化や、農薬の利用等により、それら豊かな生態系は失われつつあり、農業に携わる「百姓」の間でも、そういった「ただの虫」や「ただの草」の名前を知っている人は減り続けています。

単なるノスタルジー(郷愁)に過ぎない、と言われれば、その通りかもしれません。

その昔、実家の田んぼには夏になると蛍が舞っていて、家族で連れ立って眺めにいく、ということもしておりましたが、いつしか、その蛍も姿を消してしまいました。

それでも、いざ、実際に土に触れ、トラクターに乗り、鋤きこんだ後の土の匂いを嗅いでいると…そして、鋤き込んだ土の表面に現れた生きものを狙って飛んでくる小鳥たちを目にしていると…当たり前にある自然、当たり前にあった自然について、思いを巡らさずにはいられませんでした。

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人は自然と離れては、生きていけないのではないか…?

そんなことを考えつつ、冬から春の間は田んぼにかかりきりで、京都の畑についてはほとんど気にかけることができませんでした。

初めての米作り…それは、密接な地域との関わりによる仕事であり、一連のプロセスの理解や、集落としての文化・慣習、その他地域における実家の家の立ち位置・存在等、様々な懸念が山積している取り組みのため、どうしても多くのエネルギーを傾ける必要があったのでした。

京都の畑へ。それでも、自然はあるがままに命を生きていく

ある日、田植えの経過も落ち着き、ふと京都の畑を眺めてみると、驚きの光景が広がっていました。

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冬の間に植えたマーガレットの花はもっさりと小さな森のように大きく育ち、赤やピンクの花をいくつもつけています。

また、小松菜も大きく生育し、アブラナ科の特徴の黄色い花をつけていました。

その成長っぷり、伸びっぷりは、何かエイリアンを思わせるくらいグロさギリギリの「生々しい」生きものらしさでした。

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同じアングルで撮った以前の写真と比べてみれば、違いは一目瞭然。

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ただ、初めの驚きを経て、改めて向き合ってみると、また違った気持ちが湧き上がってきました。

『あぁ、こんなにも放置していたのに、自分の手を離れてもこんなに力強く育ってくれていたのか…。』

『ほんの数週間前まで、全く伸びてすらいなかったのに…春の訪れを、誰に聞くでもなく、自然は知っているんだなぁ』

自然の秩序と、人為的、人工的、機械的組織における秩序

『ティール組織』という、自分が度々紹介している『生命体的な組織』の特徴として、『機械的な組織』との相違点として、指揮命令系統に関するこんな小噺があります。

ある、森の山頂に生えている一本の木が、木の麓に集まってきている草花や動物たちにこんなふうに語りかけています。『さぁ、皆さん。これから冬がやってきますよ。私が合図をしたら、一斉に冬ごもりの準備をしてください。』

実際は、そんなことはなく、自然に生きる動植物は、たとえば微生物や空気の乾燥具合、気温の微妙な変化から紅葉したり、冬ごもりの支度を始めています。

そして、その光景をまさに目の前で体現されたような光景が、体現しようという特別の意図もなく、自分の目の前に広がっているのでした。

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冬の時点では、枯れ葉の布団が被さった茶色、土の色がメインでしたが、いつしか若葉の緑が畑を覆っています。

この営みから、普段の私たちの生活、仕事環境について思いを巡らせてみたとき、どのような構造によって、どのような力によって秩序立てられているか…?

そんな問いがふと浮かんできました。

もちろん、人為的、人工的、機械的な組織構造が人の歴史の中で果たしてきた役割、ブレイクスルーを踏まえた上で、こんな形の自然な秩序の形もあるのか…となったときに、何を感じ、何を選び、どう動くか、が大事なように思います。

ある1つの絶対の選択肢ではなく、相対的な選択肢の中で、自分は何を大事にし、どんな環境に身を置こうと選択するか?

それ無くしては、自分の源に繋がって生きることが難しいように、思われるのです。

生まれては消え、一部で繋がっていく、生命のプロセス

京都の畑の小松菜の一部は無事に房をつけ、その中に種を作っています。

調べてみると、小松菜は自然に交雑されることが多いらしく、どのような遺伝子を持って生まれてくるか、育っていくかはわからないようです。

高校生の時代、生物の授業で「メンデルの法則」について学びましたが、その同種における交配にプラスして、似通った別の種の植物の遺伝子の交配も選択肢に入れると、どんな種が生まれてくるのか想像がつきません。

某知恵袋系サイトを眺めてみると、基本的に、交雑された種は味が落ちたり、生育に難がある可能性もあるため、種は新しく買った方がいいんじゃないか、という回答もあるのですが…

自分はあえて、この交雑された種を元に、再び畑に蒔いてみようと思います。

自然の時間、自然の営みを少しでも自分の生活に取り入れてみよう、というのであれば、人間目線の味や形といった「ままならなさ」も引き受けてみて、その後どうにもならなかったら、また考えよう。

そんな気持ちになってきています。

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ちなみに、小松菜の育ち具合を見て、

『あ、この畑で採れたものでサラダを作ったらどうなるだろう?』

と思い立ち、トマトとレタスも植えてみました。

今のところ、良い感じで育ってくれているような気がします。(素人目線)

以上、冬の間から放置してしまった畑からの報告でした。

まだもうしばらく、畑の変容に付き合っていきたいと思います。

サポート、コメント、リアクションその他様々な形の応援は、次の世代に豊かな生態系とコミュニティを遺す種々の活動に役立てていきたいと思います🌱