「分かりにくい」を大切にしたい

一般的には「分かりやすさ」は良いことだとされており、それを目指すための解説本(「分りやすい文章」「分りやすい説明」などなど)が多数出版されています。

しかし僕は、「分かりやすさ」を手放しに推奨しても良いとは思いません。なぜなら、そもそもこの世界は「分かりにくい」からであり、「分かりやすさ」を追い求めすぎることは危険だと考えるからです。この世界において、「分かりにくいこと」の方が圧倒的に多数で、「分りやすいこと」というのは、ほんの少しなんだと思います。どっちでもない、どっちとも言いづらい、ハッキリしない、分かりにくい、そもそも答えがあるか分からない事柄というのは溢れています。

こうした物事に直面すると苦しいです。「どっちかハッキリして欲しいのに、白黒つけて欲しいのに、ハッキリしない」とモヤモヤしますし、不安です。このときに、「○○だ!」「こうすれば良い!」と断言してもらえたり、分かりやすいことを言ってもらえると、安心します。なぜなら、断言や分かりやすさによって、モヤモヤや不安が消えるからです。

しかしながら、世界というのは複雑です。なかには当然、白とも黒とも言えないという事柄があります。それなのに、無理矢理「白だ!」「黒だ!」と複雑なものを無理矢理単純化して、断言してしまうのは危険ではないでしょうか。本当は白黒ハッキリしないのに、「分かりやすさ」を求めすぎた、優先させすぎたことによって、かえって事実が歪められたり、時には危険をもたらす可能性があるからです。そういった可能性は現代において顕著だと感じます。特に、フェイクニュースやデマがその可能性をさらに加速させています。

だからこそ、「分かりにくさ」を大切にしたいとずっと思っていました。無理矢理単純化しない、複雑なものを複雑なまま扱う。こうした想いを見事に代弁してくれている本がありました。

それが、帚木蓬生(著)『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』です。

本書よると、ネガティブ・ケイパビリティとは「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」です。

これを僕なりに言い換えると、ネガティブ・ケイパビリティとは「分かりにくいこと、ハッキリしないこと、モヤモヤしていることをそのままにできる能力」です。

先行きが不透明な時代、VUCAの時代と呼ばれていますが、今だからこそ、この能力の重要性と必要性が高まってきているのではないでしょうか。


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