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なぜ天動説は支持されたのか ①素朴な天動説

地動説と言えば、天動説を支持する旧来のキリスト教的価値観によって長らく容認されなかったものとして語られる代表格だ。
「コペルニクス的転回」が画期的なパラダイムシフトを意味したり、科学的データで否定された考えに固執する様を「未だに天動説を信じるようなもの」(※1)と評したりと、天動説は古い見方や伝統に縛られて、新しい考え方を受け入れられないことの代名詞になっている。

確かに宗教裁判におけるガリレオの「それでも地球はまわっている」という発言(※2)に示されるように、中世ヨーロッパにおいてキリスト教的価値観の影響によって、長らく天動説が支持されたという背景は否定できない。しかし私は、キリスト教的価値観を差し引いても、当時の測量技術や自然観に沿うと天動説が長く支持されてきたのにも一定の妥当性があると感じている。

そこで、本記事では天動説がなぜ支持されたかを、当時の宇宙観や観測技術の側面に注目して解説していく。そして天動説から地動説に転換するまでにどのような知見の変化があったのかを、特に天動説や地動説に影響を与えた人物たちを中心に紹介していく。

なお本記事は山本義隆「世界の見方の転換1~3」およびワインバーグ「科学の発見」をネタ本としているが、数年前に読んだので記憶をWikipediaで補完している。内容の正確性は保証しないので、正確な詳細を知りたい方はこれらの本を読んでください。

※1 未だに天動説やそれに類する地球平面論などは一部の保守的な宗教信者や陰謀論者から根強い支持を受けている
※2 そのような発言があったかについては現代では懐疑的な見方のほうが強い。

素朴な天動説

素朴な天動説のイメージ

はじめに文明が興ったころの時代まで遡ろう。古代、多くの地域では大地のまわりを太陽や星々が回るという素朴な天動説が支持されていた。わざわざ自分たちを支える大地が回転することや、そもそも地球が球体であるということに思い至るためには、測量技術や星辰の観測技術の発達が必要であった。
暦の作成のために太陽や月、星々の測量が始まると、恒星は必ず1年で同じ軌道を取ることが判明した一方で、(月と太陽を除くと)水星・金星・火星・木星・土星の5つの星だけが、ほかの星々と異なって不規則な運行をすることが分かってきた。そのため、これらの星は空を惑う星、惑星と名付けられ特別な星であると認識されるようになった。
その後、測量技術の発達などにより古代ギリシャの時代にはすでに地球球体説が現れた。そして天動説を組み合わさって、球体の大地(地球)を中心として天界が回転する天動説が提唱されるようになった。このようにまず天動説に立脚した宇宙観が発達した。

この宇宙観は現代とかなり異なっていた。時代や地域によって異なってはいるが、おおむね古代~中世ヨーロッパでは、キリスト教やアリストテレス自然哲学の影響によって、宇宙とは神々の世界(天界)であり、月より下の私たちの世界と月より上の天界では自然法則が全く異なっていると考えられていた。
天動説においては、球体地球が世界の中心であり、その周りを天界世界が取り囲み、月や太陽、惑星が周転し、天界世界の終端に恒星が散りばめられた天球があると考えられていた。
この宇宙観は中世までの標準的な天動説のモデルとなった。

天動説モデルを説明する中世の書籍の挿絵
中心の地球から内側から順に月(LUNA)、水星(MERCVRII)、金星(VENERIS)、太陽(SOLIS)、火星(MARTIS)、木星(IOVIS)、土星(SATVRNI)と並んでいる。その外側を取り囲むように十二星座が並び天球を構成している。

天界では地球を中心に惑星や太陽が周転しており、天界の中を動き回る太陽や惑星はこれらを支える天殻にくっついて運動していると考えられてきた。なお1781年にハーシェルが天王星を発見するまで、惑星は水星、金星、火星、木星、土星までしか知られていなかった。太陽以外の恒星は天界の一番外側の天球にくっついて一様に運動しているとされていた。

②に続く

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