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現代に巣食う不安の構造とファシリテーションの可能性について

このnoteは、MIMIGURIメンバーによるアドベントカレンダー企画です。

毎日、MIMIGURIのメンバーが6つのテーマから1つ選んで、リレー形式で書いていきます。他のメンバーの記事はここから読めます。

突然ですが、僕は基本的には自信がありません。社会や組織に存在していて、フィットしている、という感覚をあまり覚えられない。日々暮らしていて存在論的不安のようなものに駆られる瞬間が多いです。

僕はその不安のなかで生きていくための戦略としてファシリテーションがとても有用だと感じており、そのことについてつらつらと言葉にしてみたいと思います。MIMIGURIは「ファシリテーション」の会社だと思っているので。

また、あえてこの記事ではファシリテーションという言葉をあまり明確に定義しないふわっとした言葉として扱います。読んでいくうちになんとなくファシリテーションの可能性が浮かび上がってくるようなものを目指します。なってなかったらごめんなさい。

深遠なるファシリテーションの世界へ、さあ行くぞ!

これはテーマの中でいうとなんなんだ、葛藤?かな?探究?かな?


そもそもなぜそんなに不安を覚えるのか

皆さんご存知のように現代においては、価値観が多様化しています。

単純にXのようなメディアによって、価値観の多様性が可視化された、というのもあれば、テレビの衰退によってみんなが観ているメディアが減少することや、グローバル化によって、実際に価値観が多様になっているというのもあるでしょう。

会社組織という単位においてもステークホルダーの多様化により、経済成長のみが正解という価値観ではなく、さまざまな価値観を持つようになってきているように感じます。

多様すぎる

僕自身が価値観の多様化を肌で感じた最初の経験は大学時代でした。大体7-8年前くらい。僕はいわゆる「就職がよい」と言われるような理系の大学に行っていました。

理系の大学院に行き、研究職として就職し、そこそこ生活できるくらいぼちぼち稼ぎながら一生過ごすというルートを教えら、「まあそうなるんだろうな」と思いながら生きていました。

そういう「安定した研究職で生きる」価値観のルートで生きていくのが「正しい」と思っていました。

しかし、大学時代所属していたサークルのなかで文系の人や、ミュージカルや演劇といったものづくりに面白さを感じている人たちと過ごしたりするなかでただ「理系として良い就職」をするだけが「正しい」のだろうか?と少し違和感のようなものを感じました。

大学院にはぬるっと進学してしまったのですが、サークルで感じた正しさへの違和感から、なにを血迷ったか外資系広告代理店のアートディレクター職の方にインターンとして関わる機会にふれることがありました。

様々な価値観をもった大人と触れ、自分が「正しい価値観」と思っていたルート以外にたくさんの考え方があると知りました。

そのなかでぼくは強烈な不安に苛まれました。

不安すぎる

今自分が所属している大学院からいわゆる研究職という職について、一生研究をしていく、というのは僕の性分とあっているのだろうか?

大学は勉強よりもサークル活動で作品をつくっている時間のほうが楽しかったのに?

しかも研究職という職自体が無視校で安泰である、という世界観でもなくなってきているのに?

おそらく、不安が生まれるメカニズムの入り口として、その人が感じる「今まで感じていた正解」というのがある。

そして、「違う価値観」に触れ、「自分の中での正解」がゆらぎ、「自分の存在意義」みたいなところがわからなくなって不安が生まれるのではないか。

そして、大学院にそのままいることに不安を感じた結果、大学院を1年在籍せず中退し、ITのWEB広告会社にPMとして就職しました。

中学時代から「数学や理科が得意な自分は研究職と言われるサラリーマンになるんだ」ということを思い描いていたのにも関わらず。

今まで信じていた正解を逃れても逃れても、不安はつきまとう

自分の感じていた正解という囚われに気づき、不安を覚え、不安から逃れるために違う価値観の世界にうつっても不安はつきまといます。

今の時代、どこにいっても「正しい」価値観やルートなんてものはないからです。「正しい」のなさはものを知れば知るほどわからなくなってきます。

例えば、20代前半のときとかは、いわゆる「経営者」と言われる人は「正しい」ルートを歩めた、不安のない勝者のように見えました。

しかし、実際にMIMIGURIにいるなかで経営者という方のご支援をさせていただく機会をいただく中で実感するのは、経営者の方であっても「正しく」「不安がなく」そこにいるのではない。

ただ経営という役割を機会として選択し、僕らと同じように正しいのわからなさ、不安のなかを生きている、ということです。

ぼくらが組織のなかで「これであっているかな」と不安になっているのと同じように社会のなかで経営している会社が「存在できるか」という不安に立ち向かいながら生きている。

こんな顔になっちゃう

不安を感じないために自分の世界に閉じこもるorシニシズム

価値観の多様化による不安のまん延はそんな最近の話ではありません。バブル崩壊やマルクス主義などの崩壊は1970-80年代に起き、その時点で大きな物語というのものは失われました。

1990年代、2000年代に浅田彰からの柄谷行人、宮台真司、東浩紀や宇野常寛などのニューアカからゼロ年代批評へ移行し、オタク文化などの大きな物語以後の価値観の多様化が進んだ社会の言語化は進みました。

最近ぼくは90年代の作品をみることにハマっているのですが、その頃の次代を席巻した北野武や庵野秀明のような人たちは大きな物語の提示を映画やアニメに落とすのではなく、「不安」を魅せるような作品を作っていたように見えます。

かっこよすぎる

2010年代はいわゆる言論界の語りは影を潜めていったように感じます。

少なくとも2010年代を中学高校と生きていた僕はあまりそのときに批評家・評論家などの世界に触れるコトがなく、幻想としての正解ルートを信じ込んで大学時代まで生きていました。むしろ批評家になるな、という教えを言われる時代だったのではないでしょうか。

2020年代になって、今どこまで言論的な空間がもどってきたか?というとおそらく戻ってきてはいないと思います。

ただ、ネットによるメディアの多様化により、言論的な空間もありつつ、オタク的な空間もありつつ、ビジネス強者になろう的な空間もありつつ、様々な価値観の空間が両立するような世界になっているように感じます。

1990年代は価値観の多様化への気付きはありつつ、その頃オタクは馬鹿にされる対象でありました。多様化を受容する状態にはありませんでした。

そこから2020年代にかけてオタクのような分からない価値観をもった人種が表面上、尊重されるようになった、ということからも価値観の多様化の「実装」が進んできた30年と言えるのではないでしょうか。

そんななかで不安を逃れながら生きていく方法は2極化していく構造になっているように感じます。いわゆる「ひろゆき的な極端なシニシズム的な生き方」と、「自分の価値観に引きこもる生き方」です。

どちらも価値観が多様化することによる不安を回避するための生存戦略として生まれてしまっているものと感じます。

オタク的な自分にはわからない価値観を尊重する空気のようなものは社会にあるが、実は奥底ではシニシズム的に見てしまうような感覚を持った経験はないでしょうか?

価値観の違いによる自分の間違い、存在論的不安をすべてくだらないものとして処理するシニシズム。

不安を感じないように自分の近くの価値観に閉じこもる引きこもり。

僕自身もそのシニシズム的な部分と引きこもり部分を2つ自分の中で持ってしまっている感覚があり、日々不安から逃げようとしてしまっています。

不安から逃げてハワイに行きたい

そして分断が生まれる

自分の世界に閉じこもり、シニシズムに浸ることは分断を生みます。Aという価値観とBという価値観の違いが生まれたときに、価値観を認め合うのではなく、どちらが論理的に正しいか?という評価に走ってしまう。「それってあなたの感想ですよね?」という言葉がでてきてしまう。

会社組織のなかでも分断はよく目にします。会社全体としてどういう価値観でやっていけば社会において持続可能なのかがわからないため、例えば営業は営業の正解をもとめ、開発は開発の正解をもとめ、人事は人事の正解をもとめる。

大きな物語が描けないと各々が目の前の正解にしがみつくしかなくなる。それに共感しない他者へは皮肉を言うしかなくなってしまいます。共感できない他者への興味は薄れ、表層上で責め合ってしまう。

仲良くしよーぜ

不安と分断への対処としてのファシリテーション

ファシリテーションというのは分断された人たちをともに生きることができるような場をつくっていくようなことと僕は解釈しています。

そのなかでファシリテーションの姿勢としては他者を「わかろうとする好奇心」と「それでもわからないことに敏感になること」の両立が肝にあると感じています。

場をホールドするときに違う価値観を持った人たちそれぞれに対して深い共感を示しながら、それぞれの違いについて敏感になり、違いを可視化する。

一つの価値観に収束させることに力をいれようとしすぎず、違いにしっかり目を向けていき場に展開していくことで、自然と共通する部分が浮かび上がっていくような場を作っていくこと。

僕は、ファシリテーションはなにか強烈なクリエイティビティを発揮する、というよりはこれだけ価値観が多様化し、自分の存在を不安に感じてしまう人たちが共存するための技に見えます。その共存の先になにかクリエイティブなことは起きるかもしれませんが。

前半で言論界に触れたのには理由があります。2010年代、批評家になるな、という語りが「わからなさへの鈍感さ」を生み、わかったふりをする表層的な共感偏重な世界を生み出してしまったのではないか。

ここいらで批評的視点をいれつつ、それでもシニシズム的な批判のみに終止するのではなく、共感も取り入れ、批評を超えた先としての不安社会を生き抜くための、生存戦略としての「ファシリテーション」という生き方の可能性を考えることはできないか。

やっとファシリテーションの話になってきた

ファシリテーションの天才として解釈する北野武と庵野秀明

先程名前にあげた北野武と庵野秀明は1990年代を代表するクリエイターでありながら、2020年代にまで多大なる影響を未だ与え続けているクリエイターです。

その二人は90年代的思考を持ちながら現代にも通用する思考をもっているように感じます。

僕はその理由の一つとして、二人のファシリテーション的生き方、振る舞い方が鍵になっているのではないか、と考えています。

最近、『首』が公開された北野武のこの記事がとても面白いものでした。

映画と俳句、短歌、漫才という一見違う価値観にみえるものを横断しながら共通点としての「リズムの心地よさ」に気づき、強烈に身体的な快感を覚えるような映画づくりをする北野武は僕はファシリテーションの天才に見えます。

今年『首』が上映されるにあたり、池袋の新文芸坐で『ソナチネ』を観たのですが、面白すぎて衝撃を受けました。いやー面白かったなあ。

独りよがりの作品ばかりつくっていたら、誰にも見向きもされない。文化やアーティストを生き延びさせるのも評論家なら、潰すのも評論家。製作者と評論家、ふたつの視点を同時にもたなきゃいけない時代なんだよ。

北野武が教える「伝統の因数分解」と、売れるために必要な「本当の才能」
Forbes JAPAN | magazine | Forbes JAPAN編集部

また、庵野秀明というとどういう印象をもつか、人によって様々なのではないかと思います。孤高の独裁者的なクリエイターを想像する人もいるかもしれません。

僕も当たり前ながら直接会ったことがあるわけではないですが、少なくとも下記の本を読んだときに僕は庵野秀明はファシリテーションの天才だと思いました。

庵野秀明の監督としての振る舞いは自分が作品を決めるという関わり方ではなく、作品を作る過程でいかに制作チームをファシリテーションし、偶然性をいれこみ、可能性を開き続け、身体的に「良い」と感じるものを探り続けた先のなにかに到達するか、ということをつきつめていました。

ちょっとした違和感、わからなさにものすごく敏感になりながら、顧客になにが受けるかというのを自分自身のオタク性をもとに深い共感のなかで考え、作品をつくりあげていく。

二人に共通するのは強烈なオタクでありながら、評論家的な視点をもっているところだと感じています。そしてそれが最強のファシリテーションを生んでいるのではないか。

やはり、『シン・ゴジラ』は名作である

書を捨てないで、町へ出よう

なんの記事なのかさっぱりわからなくなってきましたが、ここまでをまとめると、不安を感じるんだったら「わかろうとする好奇心」と「わからなさへの敏感さ」を使いこなそう、それがファシリテーションなのではないか、という話です。

そして、個人的にはファシリテーションを学ぶ上でかなり有用なのが「本を読むこと」だと感じています。もちろん実践も大事ですが。

本の中には著者の意見があり、その人がなぜそれを感じているのか、というのがみっちり言葉にされています。これをしっかり受け取る行為は「わかろうとする好奇心」を刺激します。

一方で全く違うジャンルや抽象度の本を読むとそもそも僕らが盲信しているかもしれない流通している言葉や事象の意味や変遷を著者によって違う捉え方をしていたりすることに気づきます。これが「わからなさへの敏感さ」センサーの発達に役立ちます。

本を片手に町へ出よう

また、実践としてはいわゆる越境学習的なことが有用と感じます。自分が普段所属する組織ではない組織に入ってみて、わからなさの中を生き、わかる部分を発見する。

最近ぼくは『ふるさと兼業』というサイトで個人で地域のプロボノ活動に手を出し始めまして介護業界や観光業界の課題感などに触れています。難しいけどこれからとても大事な視点なきがしている。

あと、僕老後が不安なんですよね、すでに。そういう意味で介護業界ははやめにいろいろ知っておかないといけない気がしている。



ぼくはおそらく、どんなに本を読んでも、どんなにいろいろな価値観に好奇心を持って生きても、不安から逃れることはできません。

不安を感じながら他の価値観はないかな、と触れにいき、そしてまた不安を感じ、ということを延々と繰り返すのでしょう。

でもそのなかでファシリテーションの視点をもつことで不安を感じながらもなんとかこのわからない世界を生きていけるような気がするのです。

この世界を生きていくしかないよね

MIMIGURIアドベントカレンダー9日目の明日はデザイナーとファシリテーターの二足のわらじを履いている後藤円香さんを予定しています。どうぞお楽しみに!

MIMIGURI Advent Calendar 2023の記事一覧はこちら


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