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家族にわかってほしい、と、期待してしまっていた。

やっと気づいた。

杉敷いたり、会うべき人に会いにいったりする事を、妻や子どもたちにわかってほしい、と、期待してしまっていた。

家族であればこそ、大切にしていることをわかってくれたら嬉しいし、がんばってね!なんて言われたら嬉しくてたまらない。

でも、家の外に意識が向いているお父さんを、嬉しく思うはずがない。

だいたいそういう反応だから、まあ、しょうがないよな、と思いつつも、私は不満を感じてしまっていたんだ。

そうじゃない。

わかってもらおうなんて、期待しちゃいけなかった。

こないだ100人カイギに行くとき、今回は微妙かなぁ、と、思って、妻に、行っていい?なんてお伺い立ててしまった。

そしたら妻は、

悲痛に、泣いた。


妻は子どもたちとの一体感がより強いし、それは私にはもちえない。だから、子どもたちの面倒を、全体をみる。毎日が忙しい。

私は子どもたちを愛してるけど、子どもたちへの関心の度合いが違う。そういうふうにはなれない。

私が外のことで生きがいを持つのはいいことだし、妻にしたら、認めざるをえないことだ。


それなのに、行っていい?なんて、、、および腰でお伺い立てて、もしダメっていったら、出会うべき人に出会えないかもしれない・・そんな責任を私に負わせるなんて、ひどい!という悲痛な叫びだ。

行きたい、と感じてるなら、行く、と宣言するしかないし、それで不満持たれるなんてあたり前じゃないか。

妻や娘が、また行くの?って不満言いたくなるのが普通だし、気兼ねなく言わしてあげなきゃいけない。

直感にしたがって生きるしかないし、それをわかってほしいなんて期待しちゃいけないし、期待しなければ、また行くの?の言葉にも傷つかない。

うん、ごめんね!

あるいは、

おう、いってくる!

それでいいのだ。


それを、これこれこういうふうに大事なことだから、なんて、言い訳がましく説明しない。

直感なんだから、

ただそれだけなんだから。


もし、わかってくれたら、

そりゃ嬉しいさ。


妻は、自分と同じように家族との一体感をもちえない私に、期待しないと、あるときから引き受けている。

それを思えば、本気で生きなきゃ釣り合わない。

わたしのひとつひとつの選択の責任を妻に負わせちゃいけない。


自分で決める。
結果はぜんぶ自分が引き受ける。


好きなことをやって、家族には伸び伸びと苦情を言わせてあげる。


もちろん、ふつうに、

家のことをやってくれていることに、ありがとうって言って、
家族サービスとか、思いやりとか、大事だけど。


お互い引き受け合うしか、運命共同体やっていけない。

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