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仲良くいられることに優る正義などない。

和光市にある、大人の秘密基地「アルコイリス」で催されている哲学カフェに、たま〜に顔を出します。


いつも何かしら気づきがあって、自己中なおじさんになるのを、なんとか回避できている?かもしれません。

今回行ったのは1年ぶりくらい。
「教育の危機、政治の危機にどう向き合うのか」というトークセッションに参加しました。

ゲストスピーカーは、佐藤和夫さんと、佐貫浩さん。


【セッションのメモ書き】


(わたしなりの言葉で抜き取リました)

政治とは、協働をつくっていく方法であり、それなしに人間は形成されない。

政治が人間形成の根幹なら教育はそれを活かさなければならない。

まず、”政治は不可欠なものだ”という感覚を獲得する。そしてその感覚を、広い範囲の「政治」にも押し広げる。

●対話とは、互いを尊重することを前提とするものであって、合意を前提にするものであってはならない。

合意を前提とする話し合いは、何かを決定しなくてはならないときだけでよい。

ひとりひとりの切実さがちゃんと受け入れられれば、人は納得するものだ。

●自分が思っていることが正義だなどと決して思ってはいけない。その先に出会おうとすることだ。

人が何かを理解するのは議論によってではない。一緒に何かをすることによってだ。たとえ嫌っていても、一緒に何かを達成したら信頼が生まれる。


【セッションのあとで考えたこと】


セッションをきいていて、わたしにとっての政治の単位は家族だ、と、ビビビッときました。

あたりまえのことだし、今までもそう思ってはいたけど、なんというか、深く認識していなかった。

いや、今だってちゃんと認識できているか怪しいけど、

政治家がやっていることだけが政治なのではなく、わたし自身が、今まさに、家族という政治の真っ最中なんだ、と、わが身におちてきました。

私には高1の息子がいますが、私が世の中に対して意見めいたことを口にすると、いつも条件反射的に否定します。

気分が悪く、ときどき言い合いになり、もう、こいつのために何もしてやらない、という気持ちにもなります。


でも、息子は小さいころからお父さんと遊ぶのが好きで、それは高校生になっても変わりません。

私が家でゆっくりしていると、野球しよう、と、しつこく誘います。私がどんなに疲れていても^^;

発泡スチロールのボールと、すりこぎ棒のバットで、家の中で野球するのにハマっているんです。


私も、時間が経つと、遊んでやらんでもない、という気持ちにはなるのでつきあいます。

20分くらいいっしょに野球すると、息子も満足気になりますし、私も、まあ楽しい。ストライクとボールの判定でもちょこちょこケンカになりますが、野球をしたいので、なんとか平和を維持して遊びます。

お父さんに勝つとなおさら嬉しそうです。

こんなふうに、うちの家族はちょっとしたことですぐ感情的ないさかいがおこります。

でも、ほんとうはお互い仲よくしたいと思っていると思います。少なくとも私はそうです。


毎日の、小さな切実。

試行錯誤です。


そして一方、
私にとって、杉を敷くことは翼です。

出会いを繰り返しながら、自然と人とあらゆるものがつながっている!と実感していくことが楽しくて、さらには人にも「おせっかい」していくと、いろんなことが起こって面白いんです。人生が楽しくなります。


でも、家族は、そうやって私が家の外に意識が向くことに複雑な気持ちのようです。

少なくとも、お父さん頑張って!という応援の気持ちじゃなく、ええ~、また家にいないんだ、と、渋い顔。

だからといって、活動をやめるわけにはいきません。やめてしまうと私は半分死んでしまいます。このいのちを活かさないことになります。

自分が死んでしまうだけの関係なら、一緒にいる意味がありません。


そこで例えば、私が林業家に会って感銘を受けたことなどを家族にも話したいですが、そういうのは聞きたくないようだから、ビジョンを壁に貼ったりして、こんなことを考えてるんだ、と、知ってもらう工夫はします。

そういう、伝える努力は大事だと思います。

 でも、それよりも・・・


息子との野球に少しつきあってあげる。

そしたら、息子は満足気な顔をするし、その様子をみたら私も嬉しいし、気持ちよく家の外に出て楽しめます。

わかってあげると、なんか、わかってくれる。

杉を敷くことや、森と人をつなぐことがいかに正しかろうと、息子は、自分を想ってくれることが何より嬉しい。


たぶん、
お互いを受け止めて、何かしてあげよう、と、寄り添うことより優先される正義などありません。
(いま、自分に刷り込むつもりで、これを書いています)

その感覚を推し拡げてみれば、戦争をしない、ということに勝る正義などないはずです。

お父さんと野球をしたい、という願いを叶えられるのは、私しかいません。

いろいろあっても、私が余白でつきあってあげれば息子は喜び、私は気持ちよく好きなことがやれます。

杉を敷くのだって、正しいから、じゃなくて、相手に喜んでもらえると嬉しいからやりがいを感じるんです。


いつも、
誰かが誰かの願いをかなえてあげて、
誰かが誰かに願いをかなえてもらえる。
それがぐるぐるとまわっている。

そんな心の余白をみんながもっている。

それを実現するのが「政治」なのだと思います。

そして誰もが、今いるところで、「政治」をしているんだと思います。

身近な人に対して、
国どうしで、
植物やほかの生き物に対して、
地球に対して。



もうひとつ思ったことかあります。

できれば毎日、家族と、
ごはんをいっしょに食べたい。

そして、子どもたちといっしょにごはんをつくれたらいいです☺️

🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲

【最後に】

今回参加したセッションで、佐藤さんと佐貫さんに、人間どうしだけじゃなく、自然とのコミュニケーションについてはどうお考えですか、と、尋ねたら、おふたりとも顔をほころばせて思いを話されました。

それをみて私も嬉しくなったのですが、専門家でもないのに、自然のことをなんだか知ったふうに話してしまい、あ~、やっちまった~、と、あとですごく恥ずかしくなりました。

アルコイリスの川上さん、横田さん、よい場をありがとうございました✨

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