見出し画像

ネストリウス派(景教)とは、どういうキリスト教なのか?

 ネストリウス派(景教)がキリスト教の一派であるとか、ネストリウス派(景教)が唐の時代の中国に伝わっていたということを知っている方は多いと思うが、このネストリウス派(景教)がどういうキリスト教だったのかと聞かれると、よくわからないという方は案外少なくないのではないか。少なくとも、自分はそうであった。そこで、ここ数年、ネストリウス派に関する資料や研究書などを読んで、ネストリウス派について学び、その経過を、はてなブログの方に色々まとめてきた。今回は、その過程で少しずつ見えてきたネストリウス派(景教)というキリスト教が、一体どういうものだったのかということを書いてみたい。

 キリスト教に少し詳しい方なら、ネストリウス派(景教)は、カトリックだろうか?プロテスタントだろうか?と思われるかもしれない。端的にいうと、ネストリウス派(景教)は、そのどちらでもない。プロテスタントは、カトリックを批判する形で生まれたが、その大元は同じローマ教会なので、大きくまとめると、プロテスタントもカトリックも西方教会と呼ばれる。ここで、西方教会があるなら、東方教会もあるよな?と推察される方がおられるかもしれないが、全くその通りで、東方教会というものもある。いわゆるヴィザンチン教会とか、ギリシア正教会とかロシア正教会といわれるものがそれである。では、ネストリウス派(景教)は、この東方教会になるのかといえば、イエスであり、ノーである。というのも、東方教会という言葉は、いわゆる正教だけを指す場合と、ネストリウス派なども含む場合があるからだ。たが、とりあえず、ネストリウス派(景教)が東方方面のキリスト教だと理解して差し支えないだろう。

 一般にキリスト教の正統派においては、イエスは「人であり神である」という教義が大前提にある。そこで、イエスが「人であり神である」なら、そのイエスの母親であるマリアは何なのか?ということになって、ネストリウスは、マリアをテオトコス(神の母)でなく、クリストトコス(キリストの母)としたので、431年に異端として排除されてしまった。背景に、キリスト教内の権力闘争と、すでに東方に聖母崇拝がひろがっていたという現実があったようだ。ネストリウス派(景教)は、こうしたネストリウスによるテオトコス(神の母)の否定という考え方を受け継いでいるため、マリア崇拝をせず、十字架(一例として標題の写真の十字架を参照してください)だけを用いたようである。またイエスが「人であり神である」ということを巡って、キリスト教界では、神学論争がたびたび起こったのだが、凄く大雑把にいうと、東方には神性のほうを重んじる傾向があり、ネストリウス派にもそうした傾向があったようである。カトリックでは、十字架にかけられた痛々しいイエス像のついた十字架を用いるが、13世紀にモンゴルに渡ったカトリックの宣教師の残した記録によれば、当時モンゴルにいたネストリウス派の信者たちは、こうしたイエス像のついた十字架を嫌がったという。これは、イエスの神性を重んじる東方の傾向によるものではないかと推察される。ネストリウス派(景教)は、イエスが「人であり神である」という正統派の大前提は否定していないので、現在では異端とはされていないが、当時は異端とされて、キリスト教世界から締め出されてしまったので、ペルシア、インドから中国といった東方に活動の場を広げていった

まとめると、ネストリウス派(景教)の特徴

①東方方面のキリスト教のひとつ
②マリア崇拝をしない
③十字架にかけられた痛々しいイエス像の否定(イエスの神性の方を重視か)
③ペルシア、インド、中国などの東方に広く拡がった


の四点にあると思われる。
よって、中国の子安観音(マリア観音)にネストリウス派の影響があるかもしれないといった言説は、否定されるだろう。

 このような特徴を持つネストリウス派(景教)は、十字軍時代に、カトリックと合同しようとする派と、反合同派に分かれて弱体化した。これは、ネストリウス派以外の東方の教会も同じで、合同派と分裂した一部が、カトリックではなくイスラムによる支配を選ぶことになったヤコブ派(シリア正教会)のようなキリスト教もあった。逆に、カトリックに合同したレバノンのマロン派のような教会も東方にはあった。

 マリア崇拝について追記すると、カトリックと同じ西方教会であっても、プロテスタントは、マリア崇拝をしない。そういう共通点があったからかどうかはわからないが、19世紀に、プロテスタントの一部が、クルディスタンやインドのネストリウス派に近づいたが、それはネストリウス派をますます混乱させることになったように見える。

 随分、大雑把にまとめたが、ネストリウス派(景教)以外の東方教会について、もう少し詳細な話は、こちらに書いたので、ご興味がある方は、ご覧ください。↓

ネストリウス派に近づいたプロテスタントの動きの例については、こちらをご覧ください。↓

①クルディスタン方面↓

②インド方面↓


(標題は、大秦景教流行碑。wikipediaから引用)

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?