FAT LAVA: Strehla【ライフワーク】
おはようございます。
今年はまさに梅雨間の曇りといった朝ですね。
今日も西ドイツ時代の陶器において、その代名詞とも言えるFAT LAVAの作品を多く作り、その名を世界に知らしめたファクトリーを1つずつ掘り下げていきます。
Strehla(ストレーラ)
今日ご紹介するのはStrehla。
こちらは西ドイツと同様の陶器を製造していた、東ドイツの主要なファクトリー。このStrehlaをはじめとした東ドイツのファクトリーこそ、僕が西ドイツで主に作られていたFat Lavaにこだわらない理由の一つ。
戦後1951年にOtto Gerharzによって西ドイツで開発されたVolcano glaze(ヴォルケーノ釉薬)が、分断された東ドイツで(デザインは真似できても)釉薬自体がそのまま持ち込まれて再現されることは難しい。しかし、元々は同じドイツの陶器産業として栄えていた東ドイツのファクトリーも独自の個性を発揮して作り上げた作品は、西ドイツのそれと比較しても同様に素晴らしく紹介に値するからだ。
ファクトリーの起源
Strehlaの歴史は古く1828 年にDresden(ドレスデン)に設立された。しかし一説には同じくザクセン州の小さな街Strehlaに由来しているとも言われており、もともとそこにあったのではないかとも言われている。(名前がそうなら後者の可能性が高そうだよね)
DresdenもStrehlaも東ドイツに含まれたけど、実際にどれ位東かというとベルリン同様にほとんどチェコの首都Prahaの北部に位置しており、東のポーランド国境も2時間程度で行ける。まさに東部ドイツに位置している。
そして、もう1つ触れておきたいのは、StrehlaはDresdenの北西に位置するがその2つの街のまさに中間地点にドイツのみならずヨーロッパを代表する白磁製品ファクトリーを擁するMeissenがあること、そしてこの3都市すべてにラべ川という川が流れていることだ。やはり水の流れは焼き物のベースとなる土に影響を与えている可能性が高そうだ。物流の要としてファクトリーが大きくなるポイントだったことも忘れてはいけないけれど。
さてさて、歴史に話を戻すと、Strehlaは1930年に同じく陶器ファクトリーのSteingutfabrik Colditz AGに引き継がれる。第二次世界大戦後、旧東ドイツ (ドイツ民主共和国 (GDR) 1949 ~ 1990 年)の一部となり、その名前を VEB Steingutfabrik Strehla (VEB は“公営事業”を意味するVolkseigener Betriebの略)に変更される。つまり、ドイツ民主共和国では公共財産であった事業の一部とされ、東西統一を目前にした1989年にファクトリーとして幕を閉じた。
東ドイツの事業では、60年代から70年代にかけて主に花瓶や植木鉢を製造し、特にオランダに大量に輸出していました。そのため、Strehlaの花瓶は西ドイツ製の花瓶よりもドイツ国内で見つけるのが難しい。
Strehlaの特徴
東ドイツのメーカー作品は、西ドイツの作品と比べると色が落ち着いて保守的と評される傾向にある。しかし、実用的なアイテムと装飾的なアイテム両方を生み出している。
先にも書いた通りの理由かは定かではないけれど、いわゆるFat Lava的な仕上げは(0ではないにせよ)実際ほとんど見られない。盛り上がりのある立体的な釉薬な垂れ、というよりは絵の具が混ざり合う様な二次元的な模様が焼き付けられている。その代わり、焼き付け前に土で模様を作り釉薬を垂らすことで立体的な模様を作り出している作品も多く見受けられる。色合いもベースとなる地をキャンバスとしてさまざまな色合いを乗せて抽象画のキャンバスの様な作品も多い。
Fat Lava全盛期にあって、Fat Lavaに頼らない独自の装飾方法を追求した結果、とてもユニークな作品を多く残してくれている。
元々同じ国内の同業者達と、地学的な理由で全く異なる環境に置かれた東ドイツのファクトリー。「作りたいものが作れない」、「外貨を稼ぐために売れるものを作らなければならない」、おそらく様々な葛藤があった中での創作活動だったと思うけれど、それでも自分達の個性を見出して独自の路線を突き進んだ。
「東西のファクトリーの交流があればもっと面白いものが作られたのでは」と思うからこそ、時代の流れで東西統一まで東西のファクトリーがそれぞれ経営を続けられなかったのは本当に残念でならない。でも、それもロマンなのかもしれないね。
僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。
皆様も、良い一日を。
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