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差別は、私のなかにも転がっている。

これを読んで、私は思った。この彼氏さん、"将来義理の弟の面倒を見なければならない"ことよりも、"障害者と関わる"のが怖かったんじゃなかろうか、と。推測なので、間違っていたら申し訳ない。

そして私は、この話を聞いて、「まあそうなるよなあ」と思う私と、「差別だけれど、どうしようもないよなあ」と思う私に気づいた。前者は、障害者が一人で生きていく難しさを知っているから、そして後者はたしかに差別だけれど結婚や恋愛に関してはどうしようもない部分があるからだ。

私も、アルビノでASDで、障害者に数えられる一人である。だからこそ、知っている。障害者が一人で経済的に自立して生きていくことは難しい。

それを"面倒見なければならない"と言われたら、何というか、反論の余地がない。現実、障害者は自分で自分を養うのさえ難しい。そんな社会は変わらなければならないと思うし、変えていかなければいけないと思う。

でも、現実としてあるのだ。そして社会は家族に相互扶助を求めて、金を出さずに済まそうとする。これで障害者が厄介者にならないはずはない。

もちろん、これは障害者が厄介者ということではなく、社会がそうさせてしまっているのだけれど、その構造に気づく前に、多くの人は自分を責めてしまう。

……というようなことを、当時高校生の岸田さんの彼氏さんが考えていたかはわからない。ただ、"何か面倒そうだ"と思ったのかもしれないし、熟考の末の結論だったのかもしれない。

恋愛や結婚においての差別はどうしようもない。どうしようもない、というのは文字通りだ。例えば市役所が障害者の婚姻届を受理しないとかだったら、出るところに出れば勝てる。行政が間違ったことをしているからだ。

だが、結婚を考えているパートナーの家に行って、「障害者との結婚は認めない」と相手の親が言った場合、そうはいかない。結婚は間違っているいないの問題ではないのである。

親と縁を切る覚悟で結婚するか、親との関係を優先してお別れするか、くらいしか選択肢はない。恋愛や結婚は自由で個人的なことだ。だからこそ、差別に対してどうしようもない。

結婚することで家族になる人に障害者がいた、将来重荷を背負わされるのでは、と思う。それが割と一般的な思考回路と思われている気がする。障害者が、経済的に自立することは難しい事実が消えない限り、あるいは消えても、人の意識が変わらない限り、この差別はあるだろう。

そして、「まあそうなるよな」と思った私のなかにも、差別は転がっている。私は、障害者と関わるのが、怖い。いや、普通の人と関わるのも怖いけど、障害者となるとその比ではない。

どうしたらいいか、わからないからだ。

どうしたらいいかわからないけれど、突然現れる。例えばこれが仕事で明日から来る人はこういう障害があってこんなことに困りがちですって説明がされるなら、ああそうなんだなって対応もできる。

でも、人生そんな出会いばかりじゃない。ある日突然、出会う。どうしたらいいかわからない。

正解がわからないとき、私はどうするか。とりあえずやってみるのではない。とりあえず逃げてきた。私より知識のある人、対応力の高い人がいれば必ずそうした。適材適所ってそういうものだと思っていたから。

やってみて失敗するよりは断然いいのだと思ってきた。

でもその逃げる態度こそが、差別に直結していると気づいて、どうしようもなく震えている。

ああ、きっと私も「アルビノでASDなんてどう接したらいいかわからない」と思われていたこと、あるんだろうな。どう接したらいいかわからないからとりあえず避けておこう、みたいな思考をされていたのかもしれない。

誰だって人間関係にコスト、かけたくないもんな。

別に、普通でいいんだけどな。

何気なく思ったその言葉はそのまま私自身に刺さった。

私が恐れていたのは、失敗すること。だから、失敗しないために何もしないで来て、本当にどうしたらいいかわからなくなってしまっている。

執筆のための資料代にさせていただきます。