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私は、死もきっとコンテンツにする。

昔、友人がいた。可愛くて優しくて、ごはんを作ってくれて話を聞いてくれて、とあるバンドが大好きでライブに行くのも大好きだった彼女。学部も専攻も違ったけれど、大学で出会って、結構な時間を共有した。

過去形になっている。そう、皆過去のことだ。現在には続いていない。英語で言うなら過去完了形。

何故だかは知らないけれど、noteで書き始めてしばらくして、音もなく絶縁されたからだ。

簡単に言えば、LINEとTwitterのブロック。電話番号やメールアドレスといった連絡先も持っていたから、「どうしたの?」と声をかけることもできたかもしれない。でも私はそうしなかった。

電話やメールをしておけばよかったとは思わない。そうした先に待っているのは、「あなたのこういうところが不満なの」とぶちかまされる今まで溜めてきた不満の数々だと経験から知っていたからだ。そして経験上、それを聞いても関係は改善しない。

それに、みっともなくすがりつくのはプライドが許さなかった。ドラマなんかでよくある、別れ話になっているのに、相手に執着する無様な人にはなりたくなかったのだ。

つまり、LINEとTwitterをブロックされた時点で関係は終わっているとして、次に行った方が、精神衛生上、"お得"なのだ。既に壊れた関係のために、"自分の悪いところ"を長文メールで聞かされて、必死で謝罪するなんて願い下げだ。私も気が強いので、必死で謝罪なんてせず、喧嘩することは目に見えているが。

だから、私は、彼女が私に愛想をつかした本当の理由を知らない。これから先も、ずっと知らないままでいる。同じ状況になったら、また同じことをするだろう。

知りたくないからだ。"自分の悪いところ"なんて。どうせ終わる関係なら、痛みなく終わりたい。

そんな私だけど、時折思い出しては眺めるほどには、彼女は綺麗な思い出だった。今こうしてここでネタにされたことを知ったら、彼女は静かに怒るだろうか。それも、わからない。

彼女が言っていたことで、納得できないことはいくつもあった。それでも彼女と過ごすのは楽しかったから、見ないふりをしていた。

彼女が就活をしている最中のことだった。精神的に参っていたのは、鈍感な私でも見ればわかった。そんななかで、彼女は言った。

「身内の死を就活用のエピソードに使うなんてよくない。許せない。私は、絶対そんなことはしない」

これを聞いて、私は何がいけないのだろうと本気で思った。普段は強い言葉をあまり使わない彼女の、きつい言葉だった。

私達は学歴強者ではない。就活においては弱者だ。東大でない時点で弱者、みたいな尺度だけど、就活って割とそういうところがあるし、今回はそれで話を進めさせてもらう。

手段を選べるほど、彼女には余裕があるとは思えなかった。学歴が無敵ではないのだし。だから私は、

「まあそういうのも戦略だよね」

とか何とか言っただけだった。本当は言うべきだったかもしれない。

私達、手段を選んでいられるほどじゃないでしょう? と。

そうしたらきっと、そこで関係は終わっていただろうけど。

死をコンテンツにするなと言う人がわからない。死は人を惹きつける。涙を誘うこと間違いなしだし、今風に言うならばエモいとされるだろう。

その強い武器を何故敢えて使うななんて言うのか。信仰や倫理があるのは知っているから思うだけなら自由だが、何故他人にまでそれを求めるのか。

彼女のその言葉を聞いて、私は「やはり愛されて育ったお嬢さんだなあ」と思った。私のような毒親育ちには身内の死は基本的に、痛くも痒くもなく、就活の自己PRに使うことに何の躊躇いもない。

彼女は身内の死が本当に悲しくて、触れられないくらい大事なものになってしまう人なのだ。私はそんなことはない。ただ過ぎていくだけだ。

毒親育ちが死を冒涜しているのではない。ただ、私はESや面接のネタ出しをしていて、死が使えるネタと映るだけだ。

何がいけないのだろうと本気で思っていた。

そういう考えの私が書き手になり、あれこれと発信をするようになった。彼女も、それを見ていた。

だから、この別れは必然だったのだ。死をコンテンツにするなと言う彼女と、後ろめたくなく死をコンテンツにできてしまう私は、一緒にはいられなかった。

多分私、余命一年とか言われたらそれもコンテンツにする。

執筆のための資料代にさせていただきます。