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アルビノの私が、出産や結婚についてとりとめもなく語る。

こんにちは、今日も元気に生きている雁屋優です。

先日、こんなnoteを書いた。

正直な気持ちを書いたのだけど、結構勢いで書いた部分もあって、説明不足感は否めないな……と思っていたので、もう少し経ってから整理して語りたいなと考えていた。勢いでnoteを書くのもありだけど、こういうことはゆっくり語っていくのがいい部分もある。なので、ゆっくりじっくり、語ろう。

そうしているうちに、この動画が公開された。

真面目に、そしてエンタメとしてもよいものを作り上げていて、本当にすごいなと思いながら観た。ヤンキーに間違われる話から、出産や就職についてまで、いろんなことをバランスよく話していて、アルビノについて知らなかった人にはとてもいい動画だと思う。

改めてアルビノについて知りたいという方にもいいと思うので、是非観てみてほしい。

そんなわけで今回は出産や結婚について、勢いじゃなく、ゆっくり考えた結果の話をする。

またそんな子が生まれても困る

私が結婚や出産をアルビノと絡めて語る上で欠かせないエピソードがある。そのなかで出てきた言葉が見出しの、「またそんな子が生まれても困る」だった。

あれは2000年代初期、私を連れた母と、同じく子連れの今の父が再婚しようとしていた時の話である。父方の実家の反対にあった。

理由は私がアルビノであること。アルビノは遺伝疾患で、アルビノの私を産んだ母がまたアルビノの子を産む可能性は他の人よりも高い。

「またそんな子が生まれても困る」

これは父方の実家で、実際に出た言葉らしい。

これを知って、私は初めて、”アルビノで生まれる”ことが歓迎されない可能性に気づいた。私が生まれたという事実を母方の祖父母も母方の親類も含めて歓迎してくれていたから。つまり、私は初めてアルビノが忌み嫌われる可能性に近くで遭遇したわけである。

私はこのことを決して忘れない。だからこういう話題の時には必ず語るし、今でも私が高齢者に抱く一定の不信感、警戒心はこの出来事が原因だろう。考えが古いからアルビノを排斥しようとするのではないか、という疑念をどうしても抱いてしまうのだ。勿論偏見であることはわかっているので、気をつけてはいるが。

アルビノは歓迎されないこともある。それが幼い頃に知った事実だった。

アルビノじゃなかったら

アセクシャルでノンセクシャルなので、正直恋愛や結婚、出産をしたいとは思わない。出産をする自分なんてグロテスクで殺してしまいたくなるほどだ。だけど、ふと思うことがあるのだ。アルビノじゃなかったら結婚や出産を選択肢に入れることもあったのだろうか、と。

アルビノの自分は恋愛や結婚の対象外だと、決めつけていた時期があった。

アルビノが遺伝してしまうのなら私は出産をしてはいけない。

そう思っていた時期があった。

アルビノに生まれた子どもは、苦労するから。アルビノに生まれたらかわいそう。そんな思いがあった。

自分を憐れんでいるのか

自分の中の過去やネガティブな感情に向かい合っていると、気が滅入りそうになる。出産の話題は結局、自分の本音にアクセスすることになるからだ。

生まれてきてよかったと思っているか、そうじゃないのか。

生まれてこなければよかったと思う夜の方が、実は多い。生きることはしんどいし、面倒くさいから。それでも自分を救えるのは自分だけというどこかの漫画の台詞を信じて、頑張っている。

自分を憐れんでいる。そう言われればそうかもしれない。視力が低いことはいつまで経っても私の敵でコンプレックスだ。視力で諦めたことなんて、いくらだってある。自分を憐れんでいる。だからこそ、自分の子どもなんて生まれるべきではないと結論するのか。性嫌悪はそこから来ているのか。

わからない。わからない。わからない。自分自身でも、よくわからない。ただ一つ言えるのは私は結婚も出産もしないという決意があるということだ。

揺れ動く心

とはいえ、心は揺れ動いている。自分の遺伝子を受け継いだ子が見たいと言い出す日もあれば、そんなのかわいそうだからやめておけと思う夜もある。

それでいいのだと思う。

結婚や出産についてネガティブさ全開な語りになってしまったが、最後にアルビノの遺伝についての情報を貼って終わろう。


執筆のための資料代にさせていただきます。