ASDへのとある誤解についての話。
ネットの海を漂っていたら、アスペルガーは人の気持ちわかんないし愛情とかないから怖いよね、といった書き込みを見つけた。この書き込みはいろいろと、間違っている。
ASDは、たしかに人の気持ちを察するのが苦手な特性を持っている。でも、まったくわからないというわけじゃない。
例えるなら、小学校の算数がわからない人と中学数学がわからない人、高校数学がわからない人を一緒くたにしているようなものだ。この人達は決して一緒ではない。
ASDはたしかに人の感情を察するのが苦手だ。相手を怒らせてからしばらくして、怒らせたことに気づく。もしくは、会話が終わってから相手の怒りに気づく。
でも、本当に気持ちを察する能力がゼロだったら、会話が終わっても気づけないだろう。敵意にも気づけないだろう。けれど、そんなことはない。
そして、これらのおかしさは置いておいて、"誰も愛さない人"ってそんなに怖いのか? とも思う。
恋愛の意味で誰も愛さない私は、そんなに怖くないよね? と思う。他者を愛さない人が皆刃物持って大量殺人鬼と化すわけじゃなし。
別に人を愛さなくても、プロダクトなど成果物への思いがあって実力があればいいのだし、そこに愛、必要か? と思う。
必要ないじゃん。あったらいいかもしれないけど、必須ではない。愛は必須アミノ酸じゃないんだよ。
でもやはり、家庭に入ると、愛さない人は怖いだけでなく、様々な齟齬を引き起こすのだろう。愛だけではやっていけないけれど、愛なくしては成り立たないのが、家庭というもの。
基本的に人を愛するってことの少ない私だけれど、誰も愛さない人と友達になりたいかって言われたらそれはちょっとご遠慮したい。だって友人としての愛も返ってこないということだから。そういう人とは仕事でしか付き合いたくない。
愛がなくても、"いい仕事"はできる。でも、家庭を築くとか友人をつくるとかは、難しいだろう。まさに、愛で勝負しなければならないから。
そこはもう苦手分野と諦めた方がいい。私はそんなに愛さないタイプの人間だけど、それでも結構難しいもの。
友人は私がそんなに愛さないと知って離れていった。それは寂しくはあったけど、仕方のないこと。そんなに愛さない人間を傍に置くのがつらいって人はたしかにいる。
そんなのはもうどうしようもない事実なんだ。でも、愛さない人間にも希望はある。
趣味で、SNSを使うことだ。好きなことの話だけして、浅くゆるく交流すること。それなら別に他人を愛さなくてもいい。
執筆のための資料代にさせていただきます。