見出し画像

被災現地で芽生える悔しさと新たな決意

どうも、ゆかりです^^
東日本大震災から10年、私がJICAボランティア帰国後に派遣された宮城県岩沼市委託事業である被災者生活支援の活動先が今月で閉所されることとなりました。
それに伴い、記念紙製本がなされ、本日手元に届きました。
全3回にわたって、震災にまつわる書き起こしをさせていただきたい次第です。

【2011年東日本大震災によせて】

大震災にて様々な影響を受けられた皆様やそのご家族、ご友人の皆々様に、
ありったけの祈りを捧げます。

震災当時、私はその頃中間管理職として勤務していた高齢者通所介護施設を退職することを決めていました。
同年に卒業した大学のスタディツアーでフィリピンを訪れたことをきっかけに、世界中の孤児やストリートチルドレンに会いに行く1年にしようと計画していたからです。
2011年3月11日東日本大震災が起こり、日本でこのような大きな災害があったのに海外に出ることに対して、大きな葛藤を抱えることになりました。
しかし当時の職場の仲間たちやご利用者様がたの多大なる応援に支えられ、初志貫徹することに。
そこでせめて日本から出る前に、被災地へボランティアに行くことを決めました。
1995年1月17日に起きた阪神大震災、私自身の居住地域は神戸の山から南側と比較すると大きな被害は免れましたが(別記事で縦揺れ地震体験談を書き起こします)。
その際、日本中だけではなく、世界中から助けていただいたことを胸に。
何か自分にもできないかと考え、職場の方からカンパまでいただき、大真面目に張り切って、ひょうごボランタリープラザの企画するボランティアに参加しました。
こうして、車中泊含め3泊4日で石巻市東松島市に行かせていただくことになりました。

【東日本大震災による災害救援ボランティアバスに参加】

震災から1ヶ月少し。
道路は当然のことながら大渋滞。
津波が襲った地に実際に足を踏み入れ、顔面蒼白どころではありませんでした。
テレビ画面で見た光景そのままが視界全体に広がります
平たい、とにかく遠くまで見渡せるほど。
そして瓦礫の山、ひっくり返り放置された車、なみなみと脈打つ地上の世界、その現実。
そして、寒いというか寒々しく重く纏う空気の体感は、今でも十分に思い出せるほどでした。
しかし衝撃を受けてばかりいては、なんのために彼の地に降り立ったのかわかりません。
まずはゴミとなる泥をかき出し運搬する作業。
グループに分かれ、担当する場所を指示を受けて、男性に紛れて作業にあたります。
ここで、私は自分の無力さに打ちひしがれてしまいました。
泥は予想通り重く、私の力が役立っているとは言えない、非力な自分に腹立たしく涙が浮かびました。
私たちの他にもたくさんのボランティアの方が活動に参加されていました。
若い男性の作業は本当に見事で、悔しさを噛み締めながらそれでも、歯を食いしばって作業にあたりました。

移動先の石巻市では、被災した学校の片付けにあたりました。
主に学習机や椅子の運搬や床掃除などの作業を女性教員の方々と共にさせていただきました。
ここでは、教員の方々とお話しする機会があり。
津波の恐ろしさや、人々の悲しみ、大切なものを失った絶望と先行きの見えない大いなる不安、そしてその中に一筋の生きようとする輝き。
私はこの時に感じたのです。
今の自分が震災直後のこの状態では役に立たない。
私がもし何かに携わらせていただけるとしたら、復興がもう少し進んだ何年か後のことだ、と。
何故なら、私自身も阪神大震災を経験し街や人の復興する過程を目にしてきたこと、そして自身の専門が幸いにもソーシャルワークであったこと。
それが自分の強みになるのではないか、と。

現地にいたときにぼんやりと心に浮かんだ気づきは、のちに確かな私の行動指針となることに。

【被災地から戻った私】

自分の非力さをよくよく体験し、その中でも志を折ることなく。
当初の予定通りに、海外に出ることに。
それまでの私は、海外における貧困、食糧難、避難民、児童労働や売春などの児童搾取、など国際的なことに関心があるものの、どこか自分の世界ではない、と思っていて。
そんな私が遅まきながら、個人的な気づきを得て、世界に出ることを自分の世界として考えるようになっていて。
そのタイミングで震災が起きて、現地に行ったことで、ますます広い視野で物事を考えるように。
震災後に行ったのは、カンボジア、タイ、インド。
その間、私の活動を見ていた周囲の人たちから青年海外協力隊(現JICA海外協力隊)への応募を薦められて。
結局は合格し派遣されることになったのですが、それもまた別の機会に。
私は、海外協力隊に応募する時に、「帰国後は東日本大震災の被災地で復興支援に携わる」と決めていました。
そうする、と強く思っていました。
そのために2年間、全くの知らない新地でさまざまな経験をさせていただき、しかも海外の方たちと交流することで日本のことも知ってもらって。
その中で自分自身を心身ともに鍛える、と決めたのです。

【まとめ】

今回、震災にまつわる私の体験を綴ってみました。
今でも私は、未熟で。
人や人の生活、人の心を専門にしてきたとはいえ、未熟。
体験してきたこと、経験してきたこと、それぞれみんな違うから。
私の経験したことも広く共有できたら、と思い書いてみました。
阪神大震災ですら、その爪痕は今でも残っています。
もちろん、私の胸にも傷痕として残っています。
本当の意味の復興や傷ついた方々の心の安らぎは、一体いつ訪れるのか。
それは、誰にもわかりません。
ただ、人は自分自身の人生が終えるそのときまで、生きる。
そんなことを考えています。

手元に届いた、岩沼のサポートセンター記念紙。
今月末に閉所。
活動を共にした仲間や、地域住民の皆さんの懐かしいお顔やお名前や文章に、胸の奥をキュッとさせる何かを感じつつも。
思いを馳せています。
次回は、岩沼市での活動について簡単に体験記を綴らせていただきます。

今回も最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございます
どんな生きづらさがあっても、あなたはあなただけの価値が、ある
そっと自分を慈しみ、日々を丁寧に生きていけますよう。
今日もあなたという人が生きていることに、感謝いたします。

サポート、ありがとうございます💗 世界の子ども支援に大切に使わせていただきますね!!!