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「祈りの声」

「増田常徳展 黒い鉱脈」田川市美術館
画家・増田常徳は、キリシタン迫害の歴史を経た長崎県五島列島に生まれた。トンネル工事現場などで働きながら独学で絵を勉強した不遇の時代を過ごし、「現代の裸婦展」で準大賞、新進作家の登竜門「昭和会展」で大賞に次ぐ林武賞を受賞、2005年には文化庁の海外研修制度でドイツへ派遣されるなど、精力的な活動を続けている。不条理を作品のテーマに、人間の暗さや闇を凝視し、暗ければ暗いほど、かえって明るさや光を求める人々の姿に真実を認め、世に問い続けている。
本展では、およそ40点の作品を通じて、人物像から社会的なテーマへと至る画風の変化や、炭鉱に取材した作品群を紹介。時に炭鉱の負の遺産としての暗いイメージに埋もれる人々の静かな抵「抗」に眼差しを向け、掘り起こすべき文化的、歴史的な「鉱」脈に光をあてる増田常徳の作品が楽しめる展覧会。

私の頭の中に、奇妙な形の生き物が棲んでいる。頭は馬で、下半身は魚。「海の馬」と呼ばれるそれは、神経、伝達部質、情報、その他多くのもので頑丈に繋がれ、どこを走ることも、どこを泳ぐことも許されず、今も脳という広い海の中に留められている。まるで陸に繋がれた船のように、海の馬は嵐の荒波であろうとも、もはやどこにも逃げられない。

ただ闇を描きたければ、キャンバスを真っ黒く塗りつぶせばいいのだ。それなのに画家は、黒い悲しみや苦しみを姿として描き「本当の闇」と見えるものを描いている。その黒い絵の数々を、おぞましく、怖いと感じる人と居るかも知れない。でも私は、画家の黒い絵の数々に「救われた」と感じた。

「沖に見えるは パーパの船よ 丸にヤの字の帆が見える」
きちがいじみた思い込みの強さ、きちがい呼ばわりの感受性、紙一重の場違いなスピリチュアル精神。自分の中に認めるそれらは、かつて海を渡りやって来た祖先から受け継いだのかも知れないと思うことがある。彼らは「何」を信じ、広い海に漕ぎ出たのだろうか。己の命を危険にさらしてまでも、彼らは「何」を目指したのだろうか。「私たちは、隠れたかったのでも、隠されたのでもない。私たちはただ、居ること、存在すること、ただそれだけを望んだ」黒い荒波の中、私には彼らの声がそう聞こえることがある。

故郷の五島列島、私が育った島にかつて辿り着いた隠れキリシタンは4世帯だっと言われる。小さな島の中のほんのわずかなマイノリティ。賑やかな街中から離れ、山を超えた島の端、強く海風が当たる場所に、彼らは隠れるように、隠されるように、ひっそりとコミュニティを作った。「祈ればそれで何でも済むと思っている人たち」彼らは、島の人たちからも時に白い目で見られた。それでも、祈りは絶やされることなく命と共に繋がれ、世代は受け継がれて来た。並外れたその強い祈りは、ついにはやがて世界遺産となる教会群を生み出した。祖父は「隠れること」を慣習として受け継ぎ、小さなマリア像をずっと隠し持っていた。「消してはいけない」「小さくても必ず消してはいけない」そんな思いで引き継いだものを守り続けていたのではと思う。

夏に五島に帰省した際、父は私を沖へと連れ出してくれた。ボートを走らせる途中「ここは昔キリシタンが祈りに来ていた所」と父が小島の小さな洞窟を指して教えてくれた。打ち付ける波音と強い風の音にかき消されながら、彼らは必死に祈りを捧げたのだろう。風が強く当たり、波も高いその場所に、恐らく当時の彼らはエンジンもない小さな木船で渡ったはずだ。こんなところまで来て彼らは何を祈ったのだろうか。 

祈りの島に育ち、祈りの人々の末裔として生まれたのに、私は自分が何を祈ればいいのか分からなかった。誰かの幸せ、私の幸せ、みんなの幸せ。原因、顛末、過去、未来、人格、プライド、嘘、真実。黒い波としてそれらは襲いかかり、海馬は留められたままただ揺るがされ、祈るべき言葉を私は見失った。

悪意は消すことを厭わない大きな力。誰かの支配により世界は今日も回る。そして、誰かの支配により消される人間の苦しみや悲しみが在る。しかしその一方で、消される者たちに注がれる視線もある。
画家は、他者の目に映るものを描く。光は目に見えても、闇は目に見えない。闇だからだ。目に見えないものは「闇」として、視覚されなかったものとして、なかったものとして、見えなかったものとして、消されるだろう。
そして闇と共にあった人の心も、見えなかったものとして、なかったもの、映らなかったものとして消されていく。
そんな消される者たちの悲しみをキャンバスに描くことで「自分には見える」「自分は見ていた」という自身の心を、この画家は人の目に映したかったのではなかろうか。目に見えるものは、人の心を救うのだから。例えば私が、この画家の絵に「君の悲しみや苦しみが見えているよ。君の苦しみや悲しみが見える人も居るよ」と冷えた心を温めてもらえたように。

父が連れ出してくれた夏の海の記憶が私の海馬に残っている。まだ夜が明けて間もない、波一つない海の上を滑るようにボートを進ませながら「気持ちいいね」と私の方を振り返り笑った父の顔を、私はこれからも忘れないように思う。とても静かで穏やかな海だった。それは凪の光景だった。

同じ五島の海を見て育ったこの画家の海馬にも、恐らく海の記憶があることだろう。時に大時化に見舞われながらも、陸を目指した隠れキリシタンの人々。そして、隠されること、隠れることを選ぶでもなく、自らの運命として堂々と引き継ぎ、祈りを絶やさなかった祖先である彼ら。台風、大時化、弾圧、誰かの冷たい目線、災害、飢え。隠れながら、隠されながら、どんな時も必死に祈ったことだろう。
私の海馬の中にも彼らと同じ、海の記憶が在る。キリシタンの彼らも、画家も、私も、知っているのだ。それでもいつか、時化は止み、いつか荒波は過ぎ去り、必ず凪が訪れることを、私たちは脈々と記憶として受け継ぎ知っている。だから祈れるのだ。「どうか凪ぎますように」と。画家の絵の前で、やっと祈りの言葉が見つけられたと思った。

痛みや傷が、誰かの心に救いを求める。そして求められたその誰かの心が、救おうとして倒れる。倒された痛みで、その誰かはまた別の誰かに救いを求め…人間の傷と救いが交互に、一つずつ、一人ずつ、心がドミノ倒しのように倒れていく。そのドミノの列に、絵画や芸術は、そっと挟み込まれる。心ではなく「モノ」として、これ以上誰の心も倒さないように。

消される者たち、消し去られた者たちの姿を、絵として、美として救い出す画家の絵は、私の傷が誰かの心を倒さないようにそこにモノの姿で立ってくれていると思った。悲しみ、苦しみをモノとして立脚させるため、それを裏側で支える画家の心に感謝したい。「自分は見ていたよ」とのメッセージに感謝したい。凪の光景を思い出させてくれたことに、心から感謝したい。

私の海馬に吹き付ける嵐も、いつか必ず凪ぐ。




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