見出し画像

どこに行くかを決めないといけない時代。

2年前らしいが、米津玄師の曲の歌詞に「どこにも行けない」という言葉がたくさんありすぎるという話題になったことがある。

「米津玄師の歌詞に『どこにも行けない』というフレーズ入りすぎ問題」というツイートがあり、それに対し米津玄師自身が「あはは」というツイートで反応したということ。

この話題を知った時、ちゃんと反応した彼が素晴らしいと思ったのと、繰り返し使ってしまう言葉にはそれなりに理由があると思っているので、証明された気がして嬉しかったのを覚えている。


どこに行くかを決めないといけない時代。

米津玄師はその後も大活躍しているから「どこか」を追い続けているのかもしれない。彼の曲を効きながら、リスナーも同様なのかもしれない。

時代は令和となった。

しかし、令和に変わったからといっても、それは表面が変わっただけだ。
概ねの人が令和に変わったからといって自身も変わったわけではないだろう。

ただ、決定的に違うのは、「どこに行くのかを決めないといけなくなった」ということだと思っている。

昭和平成は、日本人の多くが進むべき進路がフレームとして存在していた。
平成後期くらいからざわつき始めたこのフレームが、どうやら正解ではなくなるらしいということになってきた。

これらは「働き方改革」と呼ばれたり、「女性活躍」とかいうちょっと見栄えしそうなネーミングで包まれていた。よくよく考えると、責任のベクトルが変わったということになる。

今まで国や企業が負っていた責任を、個人で何とかするようにと責任のベクトルを調整し始めた状態だ。


どこに行くかを決めないといけない時代。

これを不自由と呼ぶのか
自由と呼ぶのか
それすらも自分で決めないといけない

自分らしさとか
価値観とか
強みとか

そういうものを意識し始めた世の中がとても愛おしい。
さあ、自分が何持ったどんな生き物かを
試してみる時が来たんだ。
かかってこい。

日常のふとした瞬間や閃きを、毎日書き記しています。 応援してくださると泣いて喜びます(T_T) Twitter:https://twitter.com/yurari_0_0