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109の文章を書いたことで、得られた思い。

note毎日更新が100日間続いた。遠く離れたところに住む、大切な友達が教えてくれた。
彼女自身が、Facebookライブを100日間連続UPを達成したからだ。
お互いに6日間くらい続いたところだったか、別のメディアだが、偶然にも続けていこうとしていることを共有し合ったのだ。

彼女はすべて真面目な内容なのだけれど、私はちょっと違う。
「今日は書くことがない」的な、かなり投げやりな文章も書いていたからだ。まあでも、結果としては100日間書いたことには変わりがない。だから良しとする。

あらためて確認すると、連続投稿を始める前に、ちょっとだけ書いた文章があり、昨日までの投稿が109記事となっていた。


109の文章を書いたことで、得られた思い。

文章を書くこと自体は、嫌いではなかった。
だがしかし、特別得意だとも感じたこともなく、そもそもそこまで文章を書く必要性など今までの人生ではなかったのだ。

誰かに知ってもらいたいことがあったわけでもなく、情報提供といった気の利いたものもなく、創造性もない。
要は、独りよがりの文章をひたすら書き続けていた。

さて、そこから得られたものは何か?

この自問に対する自答は「データ」だ。

何と・・・。
もっと情緒的な気分になると思いきや、今までの投稿一覧を見返して浮かんだ言葉が「データ」だった。

でもね。

懐かしい思い出も、楽しかった一時も、今は誰もが持っているスマホで気軽に画像も動画も残しておくことができる。
それらはデータだ。
そして、私が記しているこれらの文章もデータなのだ。

もう数十年前も前に、イギリスにホームステイに行った経験がある。
英語も全く話せないのに。(英検3級すら持っていない。思い切りだけが取り柄なのだが、それが仇となって向こうで泣いていた。笑)

当時はスマホもなく、デジカメは金額的に手が出なくて、懐かしの「写ルンです」を持って行った。つまり、フィルムだ。
24枚とか36枚とか、限られた枚数しか撮ることができない。
だから、たくさん撮りたいのに、躊躇してしまったことが悔しかった記憶がある。

「写真ではなく、記憶としてしっかり目に焼き付けておこう」なんて、気休めの言葉を自分にかけていたが、記憶というのは、残念なことに、薄れてしまう。


109の文章データが意味するもの。

やはり、この文章はデータなのだ。
その日その時の思いが、デジタルデータとして反映されているに過ぎない。
がしかし、そのデータは「私の思いの記録」だ。
スマホに保存された、笑顔のデータも、カフェの画像も、おどけた動画も同様に。

だから、私は今日も書く。
明日も書く。
だって、いつか忘れてしまうから。
いつか、忘れて、しまうから。


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