自分らしくないことを、することの意味。
向き不向きとか、興味のあるなしとか、人にはそれぞれ趣味嗜好のようなものがある。
だからいろいろな人がいて、だから面白い。
この部分が皆同じであれば、エンターテイメントなんて世界には存在しないだろう。
自分の生活の中で、それを苦と感じることなく行動していることが「強み」だという説がある。「強み」についての考え方として、頷けるものだ。
ここからは私見となる。
たまに、「子供の頃から、その子の才能を伸ばすための教育をすべきであり、○○を皆んなと一緒にさせるのような一律の指導は押し付けだ」といった記事を見かけることがある。
これに関しては、同意できる部分もあるが、同意できない部分もある。どちらかというと同意できない部分の方が割合としては大きい。
理由は、「その子の才能を見抜ける大人の存在」がいるのかというところと、「子供自身が自分の才能を自覚するのは難しい」という2つが挙げられる。
その子の才能を見抜ける大人の存在
親であれば、子供の才能に気づけるはずだと思われるかもしれない。いや、正直、子育ての経験もあり、子育てをしている人の中で過ごした経験もある。また、子育てを終えた人とももちろん関わっているが「子供の才能に気づけている親」なんて、あまりいないのだ。
もちろん、子供の性格や資質などへの気づきはある。しかし、才能となるとまた別の問題だ。親はどうしても自分の理想を子供に望んでしまうから、邪念なく才能を見出すことは不可能に近いのだ。
子供の個性を伸ばす育児ができる場合と、できない場合がある。
これは事実だ。
子供自身が自分の才能を自覚するのは難しい
子供自身は、大人が作り上げた環境の中で、大人が与えた選択肢の中で自分の意思を持たないといけないことになる。
物心つくのが早い子や、もともと意思がはっきりしたタイプの子であれば、自分の才能をキャッチする精度が高くなるかもしれない。がしかし、概ねの子供は「自由」を生きている。
自分らしくないことを、することの意味。
そうすると、やはり、子供には「自分のやりたくないこともやらせる」ということになる。
これは押し付けではない。
・なぜ、やりたくないのか?
・やってみたらどうだったのか?
・やり方を変えてみたら、興味が湧くのか?
・やりたくなかったけど、できたのはどうしてか?
要するに、苦手なことに取り組むということで、人は成長するという面を、きれいな言葉で無駄扱いしては危険だということ。
それから、
子供の才能に気づいてあげられるような、時間的、心理的な心の余裕を持つことができる親であることは、なかなか難しいと思うところもある。
では学校に?
その考えはあまり好きではない。
学校教育を批判するのはいいが、学校に期待するものが膨大すぎる。
子供を育てる上でのベースは、学校ではなく親だ。
そして、「自分らしさ」とかわからずに生きている親が、それを子供に視るのはハードルが高い。
だから、今を生きる大人と、もうすぐ大人になる人こそ、「自分らしさ」を探究し続ける力が必要だ。
今を知り
明日を知り
次の未来を知る。
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