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うまく言葉にできない人の、癖。

とある診断をしたところ、私はインプットは感覚的。アウトプットは論理的なのだそうです。ああ、まさにそうだと深く頷きました。

感覚的✕感覚的な人もいるし、
論理的✕感覚的な人もいるし、
論理的✕論理的な人もいるということです。

あくまでも傾向ですが、感覚的な人は言語化が苦手だと思われます。細かく表現するのが苦手なので、言葉が出てきたとしても抽象的なワードのチョイスになります。

以前、メールカウンセリングをしていた際、感覚的な方がよく使う言葉がありました。

「何となく」
「自然な流れで」
「気づいたら」

ご自身の行動の理由をお聞きすると、こんな返事がかえってくるのです。
責めているわけではないのですが、自分自身に起きている出来事なのに、どこか透明人間のような印象を受けます。

仕事を辞めるのに、何となくもないでしょうし、
仕事を辞めるのに、自然な流れということもないでしょう。
気づいたら仕事を辞めるなんて、ありえないはずなのです。

もう一度書き記しますが、全くもって責めているわけではありません。
むしろ、よしよしと頭を撫でてあげたくなる思いがします。


うまく言葉にできない人の、癖。

ここで、それでも何か理由があるはずだと問いかけます。
この時、「うまく言葉にできない」を自称する人の癖が表れます。

その問いかけに対して、答えが出せない。
答えが出せない自分が悪いと思い込む。
答えが出せないことを、責められていると感じる。

「こんな私で、ごめんなさい」と、謝る。

メールカウンセリングをした中で、何人かがこんな流れになりました。
これを、自己肯定感が低いからというひと言で片付けてしまうのは簡単なことだと思います。

けれど、ここで起きていることの真実があります。
実は、この流れになる人は、「自分のことをとても大切」にしている人なのです。自分のことを大切にするとは、肯定していることとは違います。

傷つくことを恐れるがために、傷つくことから逃げるために、「ごめんなさい」と謝ることで、自分を守っているのです。
謝ることで、「そんな、謝る必要はないですよ」とか、フォローしてもらえる側になるからです。

嫌な書き方をしました。

感覚的なことが悪いことではないのです。抽象的でも良いのです。
そもそも、子供の頃は誰もが抽象的な会話をしていたはずなのです。ただ、もう少し向き合うことをしていかないと、恐らく、次のステージにはいけないはずなのです。


自分を認めてくれる場所を探すなら、まずは自分を認めてあげること。
そして、自分の中に「理由」になる言葉を見つけること。
なぜ、それをするのか?
なぜ、それをしたのか?

身の回りの出来事は、自分自身の選択で引き起こされるから。

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