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仲良しも苦手な人も、みんな仲間

条件付きの幸せを求めていませんか?

苦手な人がいなくなったら、幸せ
自分だけ理解しても相手が理解しないと意味がない

自分が変えられるのは、自分だけ
相手は変えられないことを頭で理解していても、
やっぱり相手が変わってくれないと・・・と、思ってしまう。

そんな条件付きの幸せを求めていませんか?

それを求めている間は、本当の幸せが遠のいていきますから、ご注意くださいね。

どこから「仲間」なのか?

・家族
・学校
・職場
・地域
・サークル
こうした括りは、仲間として理解しやすいです。

実はそう捉えるほど、幸せに条件が付きやすくなってきます。

他者を”敵”ではなく、”仲間”とみなす

アドラー心理学に、「他者を”敵”ではなく、”仲間”とみなす」とあります。

アドラーは、人間の悩みはすべて”対人関係の悩み”と言っています。
大体、自分の思い通りにならない人は”敵”とみなし、敵からの攻撃に備えようとします。そんな人がいる世界は危険だと思い込むし、そんな人を排除したいと思います。

無自覚で自分が傷つかないよう、自分を正当化する言い訳をたくさん思いつきます。

しかし、身近な“敵”だからこそ余計に、「なんで自分だけが、、」「あの人がいなくなれば・・・」と排他的な思いもわいてくるでしょう。

ところで、仮に”敵”認定した人を排除できたとして、あなたの思い通りになってくれる人だけの世界は、実現しそうですか?

アドラーの「共同体感覚」

秋祭りが各地で開催されています。

祭りの神輿も、以前は町内の人間しか担げないのが一般的でしたが、最近は担ぎ手不足ですから、違う地区の友達も交じっていることもあるでしょう。

しかし、誘った友達が、町内の別の人にとっては、苦手な人である場合、
それでも人員確保は重要です。そして、担ぐことに疲れたときに代わってもらえたら、やはりありがたい気持ちになります。

そのときだけは、苦手な人”敵”は中断して、神輿を担ぐ”仲間”です。

私の地元の神輿(布団太鼓、だんじり)は、総重量1トンを超すものが多く、みんなの気持ちが一つにならないと、できないパフォーマンスがあります。何よりケガや事故が大きくなってしまいます。

好き嫌い関係なく、みんなの目的や気持ちが一つになる”仲間”
神輿ならば、祭りの期間中、誰もが楽しく安全に曳行できるために、それぞれが役目を果たしながら関わる、これが”共同体感覚”ではないでしょうか。

自分に関わる人すべてが「仲間」

会社の経理の〇〇さんが苦手だとしても、やはり仲間です。
できれば、経理の別の人に対応してもらいたいと思っても避けられないことも場面に出くわすと、「今日、ツイてない」と思うかもしれません。

「次の人事で他の支店に異動してくれないかな」と密かに期待してみたり、「あの人は、なぜあんなことを平気で言うのか?」と考えて、誰かと比較したりジャッジすることもあるでしょう。

ところが、これをすればするほど残念な結果になっていませんか?
これは、苦手な人に意識をずっと向けているからです。

では、仲良しになろう!ではなく、『仲間』として認めてみよう!という話をしていきます。

条件付きの幸せを求めるのは?

苦手な人がどこかに去って欲しいと条件をつけると、幸せは遠のきます。

「みんなもあの人のことは良く思っていない」だとしても、賛同しているなら、少なくともあなたは、その人にそのレッテルを貼っています。

しかし、あなたがその人の何に苦手意識を感じるのか?を自分に向き合って見つめていくと、なんと、それが自分にもあることに気づくでしょう。

自分の嫌なところは、誰だって見たくないものです。
それを見せつけられるから苦手になるのです。
これは、現象面のことではないので、「私はあの人みたいなことはしない」とかではないです。

『人は心の鏡』と言いますが、目の前の人の嫌だと思うことを排除するとは、自分のその部分を否定していることと同じなのです。

だから、こうなったら幸せと条件を付けているとは、こんな嫌なところがない自分だったら幸せなのに・・・と、言ってるのと同じなんです。

すなわち、「今のままじゃ、アカン」と思っているので、また「やっぱりアカンやん!」と思う現実が創造されてくるのです。

嫌な人(部分)を認めて、それもあって自分と認めていくのが『自己受容』です。

私の経験をお話すると、
私は母親がすごく苦手でした。
「こんな人にはなりたくない!」と子供の頃からずっと思ってきました。
自己受容を進めて、母親にも愛されていたという思いも感じられてきたのに、どこか抵抗している部分がありました。

その抵抗(母みたいになりたくない)は、まさしく排除でした。
それが自分の姿や言葉に垣間見えたときの超自己嫌悪感は最悪でした。

それで、「最低やけど、私にもそれある!」と、開き直って認めることにしました。

こうして抵抗を手放していくことで、自分がラクで幸せを感じる時間が増えてきました。

『仲間』とは、仲良しだけではなく、自分の嫌なところに気づくきっかけをくれている苦手な人も大切な『仲間』なのです。
(もちろん、相手にその役目を果たしている自覚は全くありませんが)




誰のためでもなく、自分の幸せのために♪





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