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令和源氏物語 宇治の恋華 第六章/空(くう) 解説

みなさん、こんにちは。
『令和源氏物語 宇治の恋華 第百三七話 浮舟(一)』は4月30日(火)に掲載させていただきます。

本日は第六章『空(くう)』の章を解説させていただきます。
一話としましたが、仏教の教えに関わる部分が多かったので、とても苦労した章です。私は仏教徒ではないですから、(家は浄土真宗ですが)専門用語などを出そうものならば自ら首を絞めるような暴挙となってしまうわけです。
本当に苦労しました・・・。
というところで、読んでいただければ幸いです。
こちら↓

 山の阿闍梨
ここでは薫と懇意の山の阿闍梨が登場しますね。
阿闍梨は八の宮の姫君達を案じて御仏の言葉を説いて宥めようとしたものの、姫君達は取り乱したままその言葉を聞こうとはしません。
源氏物語では度々女人は御仏の言葉もわからぬ賤しきものである、とか、浅はかである、などと書かれておりますが、この時の阿闍梨もそう感じていらしていたのかもしれません。
しかし、愛していた人を亡くすということは、御仏の元に旅立ったといわれても諦めることも、忘れることもできないものです。
そして女人は命を育むという役目を担っておりますので、命の尊さと慈しむ心は殿方が思っているよりも深いと私は考えております。
その姫君達にはすでに遺体が荼毘に伏されたという現実に耐えられるはずもないのです。
もちろん阿闍梨とて人ですから、長きにわたり親交を深めてきた同士ともいえる友人を亡くしたことをそうそう割り切れるものではないでしょう。
ただ人に御仏の言葉を伝えて導くという責務を負っている人なので、己の心を押し殺してでも、感情を露わにしないのです。
阿闍梨が人知れず八の宮を偲んで涙を流された場面は、書いていてもせつなくなりました。

 色即是空 空即是色
般若心経に記されたこの言葉で薫は八の宮さまを思います。
この言葉を理解しようとするには私には難しいところでした。
コトバンクによりますと・・・

物質的なもの(色(しき))はそのまま実体性をもたず(空(くう))、また実体性をもたないままでしかも物質的なものとして存在するという意味で、これに続いて感受作用(受)、表象(想)、認識などを形成する力(行)、認識器官(識)についても同様のことが述べられる。人間を取り巻く世界と人間、考えられうるすべての存在者は、人間が想定しがちな不変で固定的な固有の性質をもって存在するのではない、換言すると空であり、しかも空でありながらいろいろの原因条件によって現象しつつある、という般若経典の基本である空の思想を表現したもの。前半は、あらゆるものを空とみることによって人間の煩悩(ぼんのう)や妄想(もうそう)を取り除くことをねらい、否定的であり、後半は、執着のない目でみたとき、あらゆるものがそれぞれの働きをもって生き生きと現象し存在していることを肯定的に表している。

コトバンク

うーん、わかるようで、わからないです・・・。
薫君がこの言葉をもって八の宮に思いを伝えるとするならばこうなったであろう、というのが私の意訳になります。

色も空も同じである。
宮さま、あなたは空になられたがそこにあるということですね。
きっと想いは残り、姫君たちを見守っておられるのでしょう。

門外漢ですので、この程度でご容赦いただけるとありがたいです。


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