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令和源氏物語 宇治の恋華 第百八十三話

 第百八十三話 翳ろふ(三)
 
時方が去ると、浮舟君の母・常陸の守の北の方が山荘に駆けつけました。
取るもの取りあえずといった体で、普段着のような装束のままに目は真っ赤に腫れあがっているのがなんとも哀れに思われます。
事情もよく知らぬこととて未だ娘を亡くしたという実感は湧かぬのでしょう。
「どういうことなのですか?合点がゆきませぬ。姫や、姫や・・・」
そう呟きながら、姫の御座所からいつも眺めていた端近、姫が居た場所すべてをその目で確かめて、姿が無いと知るや膝から力が抜けたように蹲(うずくま)りました。
「おお、何があったというのです?わたくしの姫はどこに?」
姫がもうこの世にないと感じると母君は感情の赴くままに烈しくむせび泣きました。
 
どれほど泣いたことでしょう。
とめどなく溢れる涙に袖がびっしょりと重く濡れるまでになり、北の方はおもむろに顔を上げて言いました。
「姫を亡きものにしようとする者が居たに違いありません」
「御方さま、それはどういう意味でしょうか?」
側に侍る昔なじみの老い女房たちには即座に北の方の言わんとすることが理解できませんでした。
「きっと薫君の正妻・女二の宮さまが悋気をもって姫を弑したに相違ありません。新しい女房などで姿を消したような者はありませぬか?」
なんとも唐突なことで、みな狼狽しました。
「御方さま、この面々をご覧になってくださいまし。我らは昔から姫さまにお仕えしてきた者ばかりではありませぬか。新しい女房も雇い入れましたが、どうにもこの寂しい山里に馴染めずにみな里帰りしてしまいました」
「それではこの中に姫を裏切った者がいるのではあるまいか」
どうやら北の方は恨みの矛先を薫君の正妻と定めようというのです。
そうでなければ己を責めてどうにも身を保ってはいられないように思われたのでしょう。そんな姿を殊更に哀れと感じるのは姫の自死の真相を知る右近の君と侍従ばかりなのです。
「侍従の君、お姫さまにはお気の毒なことですが、このまま母君さまに騒がれては世間はいらぬ詮索をして、宮との関係までも露見しかねません。この上は辛いことですが真実をお話し申し上げましょう」
「そうですわね。御方さまにも残酷な事実でしょうが、これではお姫さまも安らかに眠れませんわ」
そうして侍従と二人、人払いをして母君に真実を打ち明けたのです。
 
常陸の守の北の方は、予想だにしなかったことで呆然と言葉を失いました。
「それでは姫は匂宮と通じていたということですか?」
「もちろんお姫さまの本意ではございませんでした。女人のか弱い力では殿方の情熱に抗しきれるものではありませんもの」
「そうとはいっても・・・」
母君はそのまま言葉を呑み込みました。
たとい最初がそうであっても、二度目を拒むことが出来なかったのはそこに付け入る隙があってこそ。
あまつさえ何度も逢瀬を重ねていたとは。そしていよいよ薫君に迎えられる段に自ら命を断つなどとは宮に心動かされた証ではないか。
なるほどあの見た目の派手やかな宮なれば若い娘の目を眩ますことなど容易かろう。
妻の妹に手を出すなどと恥知らずの御仁であるよ。
 
母君にはあの軽薄な宮の姿が思い出されて憎くて仕方がありません。
それと同時に薫君への申し訳なさでまた涙をこぼしました。
「なんと情けないことでしょう。薫君はきっと不快に思われたでしょう。それどころかやはり姫を下賤の腹の出と蔑んだでしょうか」
「いいえ、薫さまはそれでも姫君をお迎えするようなさっておいででした」
「ああ、本当になんと申してよいのやら」
「御方さま、こうなってはこれ以上の醜聞は避けねばなりませぬ。今宵のうちにも葬儀をなさるのがよいかと思われます」
右近の君の申し出をそうするべきとはわかりつつ、亡骸を見てもいないのにそうそう心は切り捨てることのできない北の方なのです。
「せめて亡骸だけでも探してさしあげましょう」
そう言いさすも、右近はきっぱりと首を横に振りました。
「このような死に目はただでさえ憶測を呼ぶものでございます。もしも亡骸を探す様子が明らかになればいらぬ詮索をする者が出てきますでしょう。お姫さまの秘事が知られるのだけは避けたほうがようございます。それに今から探したとてこの急流にあってはすでに大海にまで流されてしまったに違いありません」
ここまで言われては致し方なし、と北の方は泣く泣く葬儀を出すことを承諾しました。

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