令和源氏物語 宇治の恋華 第二百三話
第二百三話 幽谷(一)
浮舟は霧の中に佇んでおりました。
その前に流れる川は黒い水を湛え、紫色の濃い霧が水面をなぞる。
ひとたびその水に触れればかつての記憶をすべて無くして彼岸へと旅立つことができるのを、あるいはその方が救われるかもしれぬ、ということを浮舟は知りません。
ただ何も映さぬ水が恐ろしくて足が動かないのです。
ふと誰かに呼ばれたようで振り返ると、そこには見たこともない貴公子がじっと浮舟を見つめておりました。
典雅な佇まいに一瞬匂宮かと思われましたが、ほっそりとした面がどこか懐かしい。
その瞳は深い色を湛えて何かを訴えているようでした。
それは苦悩に満ちた色。
悔いるような、憐れむような、詫びるような。
貴公子はゆっくりと手招きをしますが、浮舟はそれに従ってよいのかわかりませんが、悪意を感じぬものでそろそろと手を伸ばしました。
一歩、一歩。
川から離れるごとに恐ろしさは消え、貴公子の前に着く頃には自分に大きな変化が表れていることに気付きます。
貴公子にずっと高い所から見下ろされたように身が縮み、手も小さく、浮舟は童女の姿に戻っているのでした。
貴公子はそっと屈むと目を合わせて浮舟の頭を優しく撫で、抱き上げました。
不思議と恐さはなく、この人に身を委ねてもよいという安心感さえ湧き起こるのはどうしたゆえか。
抱かれたまま川から遠ざかり、先刻までは闇しか横たわっていなかったものが、うっすらと照らす月夜のように穏やかな宵となっておりました。
それと同時に音も蘇り、さわさわと渡る風が頬を撫でる感覚も戻ってきたのです。
貴公子は浮舟を柳の根元にある大きな石に座らせると再び頭を撫でて、慈悲深い笑みを見せました。
そうしてすうっと掻き消えるように居なくなったのです。
もしや今の御方は父宮さまではあるまいか。
御仏に背いた迷えるわたくしを導こうと来られたに違いない。
そう思うと涙がこぼれて、浮舟は打ち臥してしまいました。
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