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令和源氏物語 宇治の恋華 第百八話

 第百八話  迷想(十八)
 
女房たちはそんなこともあろうかと見ぬふりをして潮が引くように御座所から離れました。
その遠くなってゆく衣擦れを孤立で殿方と渡り合わなければならぬ中君は無情と恨みましたが、気をしっかり持たねばと嫋やかに身を引きました。
薫は顔を袖で隠して後ずさりする中君の袖を捕え、傍らに臥しました。
「薫さま、戯れはおよしになって」
「戯れ心などはなから持ち合わせてはおりませんよ。私の御心はおわかりのはずでしょう」
「わたくしは宮さまの妻ですもの」
「そうですね。その宮さまは六の姫に夢中になっていらっしゃる」
「残酷なことをはっきりとおっしゃいますのね」
「それが現実ですからね。あなたが愛しいばかりに私は狂ってしまいそうですよ。いっそこのままあなたを宇治へ攫ってしまいたいと思うほどに」
「もうすべてが遅いのですわ」
そうして涙をこぼす中君の様子はあの大君と瓜二つではなかろうか。
薫の自制心はぐらぐらと、ついに中君を抱きしめました。
「こうなる宿命であったとは思われませんか」
「いいえ、いいえ。いけません」
柔らかく拒む中君を抱きすくめた薫はその腹のふくらみに気付き、身を離しました。
「御子がおられるのか」
「はい」
中君は恥ずかしさに顔を背けて泣いているばかりです。
「宮はこのことをご存知なのですか?」
「いいえ。ですからこのまま知らせずに宇治へ引き籠りたかったのでございます」
「なぜお伝えにならないのですか。宮さまはきっとお喜びになるでしょう」
「懐妊に気付いたのは宮さまの婚礼が決まってからのことでございます。宮さまの御心の負担になろうかと婚礼が済むまでは伏せようと決めたのですが、いまだ告げられずに今日に至っているのですわ。この上はこのまま宇治へ参りたいと思います」
「身重の状態での山越えはお勧めできません。もしもあなたに何かあったならば私は大君に顔向けできない」
「薫さまはわたくしの気持ちをわかってくださると思っておりましたのに」
「わかりますとも。そして宮の気持ちもよくわかります。一刻も早く宮さまへ懐妊のことをお告げなさい。今は左大臣の手前六条院を重んじておられますが、大切な御子を宿したあなたを尊重するのを誰が咎めましょうか。さすがの左大臣もできませんよ」
「そうでしょうか」
「そうですとも」
薫は心から中君を励ましながら、己のお人よしぶりが可笑しくなりました。
「私はまるで道化のようですね」
ふと漏らした笑みとその言葉は中君の胸を抉りました。
こうなると初めからわかっていたものを、薫君をだしにしようとしたことが、君の心を深く傷つけたのを改めて思い知ったからです。
中君は申し訳なさに言葉も出ませんでした。
「賢しいあなたの為になら踊りましょう。どうせならばもうひと踊り」
薫は側近の惟成を呼ぶとごにょごにょと何事か囁きました。
「これは私達だけの秘密です。次からは腹蔵なく相談なさってくださいよ」
「薫さま、わたくしは・・・」
「もう何も言わないでよいのですよ」
「はい」
中君は後悔のあまり澄んだ涙を流しました。
薫はこの女人の苦しみを知ったように思われて、責めることができません。
「九月に入ったら宇治へ赴こうと思います。以前から考えていたのですが、宇治の山荘を山寺にしませんか?八の宮さまと大君の菩提を弔うにはそれがよいと思うのですよ」
「そうですわね、それがよろしいかと。薫さまにお任せいたします」
「中君さまは元気な御子を産んでください」
「はい」
「あらぬ噂がたってもいけない。私はこれで失礼いたします」
薫は振り返ること無く二条院を去りました。

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