令和源氏物語 宇治の恋華 第二百二十一話
第二百二十一話 山風(一)
小野の一同からは恨まれた僧都でありますが、それこそ愚かな女人たちの一方的でお門違いな恨みということになりましょうか。
帝の思し召し通り僧都は比叡の座主と力を合わせて一品の宮を御救いしたことからその評判は高まるばかりなのです。
まだまだ調子の戻らぬ女一の宮さまの為に日を延べて祈祷などに奉仕しているので僧都はなかなか御山に戻ることはできません。
常から御山を離れない御方ですので、明石の中宮はよい機会とその働きを労う為に女一の宮の御座所までお越しになりました。
「僧都殿、此度は宮を救っていただきましてまことにありがとうございました」
「なんと、中宮様より直にお言葉を頂けるなど恐縮の極みでございます」
そうして遜って深々と頭を下げる御方なれば徳高く立派な心映えであると思われるのです。
「以前より僧都殿を信頼申し上げておりましたが、ますます頼もしく感じました。これからもどうかお力をお貸しくださいませ」
「私こそお役に立てとあらばいつでも馳せ参じまする」
女一の宮に仕える女官たちは連日の看病疲れで、多くが局に下がっております。
御帳台の傍らにはあの薫君の恋人である小宰相の君が控えているのみ。
雨が静かに降り注ぐ穏やかな宵でありました。
風もなく、しとしとと秋草を濡らす雨音は優しく、哀れをもよおさずにはいられません。
「一品の宮さまを悩ませておったのは、叶わぬ恋に身を滅ぼした憐れな男の亡霊でございました」
「まぁ」
「尊いご身分となれば、なかなか思うようなご結婚は望めませぬからな。生木を裂かれるような苦痛で心を喪くした男は狂って野たれ死んだらしく、一品の宮さまに憑りついたのは裂かれた姫君によく似ていられたようでございます」
「そうでしたか。恋心は抑えられませんものね。人の性が悲しく思われますわ」
「左様ですなぁ。拙僧のように幼くして仏門に帰依した者には男女の情というものを理解するにも程遠いのですが、さまざまな想いが凝って物の怪などになるものですから、それと知らずも思うところも多くございます」
「愛というものは誰しもが持つものですわ。男女の間のものだけではございませんでしょう。肉親に対するものもそうですし、お弟子さんたちへ向けられるものも愛情でございます。何より御仏が享受してくださる慈愛ほど尊きものはございません。そのあたりは僧都さまの方がお詳しいとは思いますが」
「はは、そうですな。そうありたいものです。しかしながらその愛が人を幸せにも不幸にもするのですから困ったものでございますよ」
「そうですわねぇ。それにしても物の怪の身の上までおわかりになるなんて不思議なお話ですこと。僧都殿はいつでもそのようなご経験をなさるのですか?」
「物の怪といえど元は人であったものですから、いろいろと自身を知ってもらいたいのでしょうな。野たれ死んだ無念さなどを聞いているうちにも穏やかになってゆくものです。ただ力だけで調伏するでなく、理解することも時には必要なのでしょう。そうですなぁ、確かにこの身は世にあらざる者と交わるのも多い身でございます。この春頃にも不思議なことがございましたよ」
そうして僧都は浮舟姫との不思議な巡り合わせを語り始めました。
「三月も終わりの頃でしょうか、私の母が願解きのために初瀬へ詣でた時のことでございます。母は帰り路にて体調を崩し、何しろ高齢ですので宇治の辺りで山越えは難しいと判断いたしまして亡き朱雀院の御領である宇治院に宿を借りることとなったのです。しかしながら無住というのはさまざまな怪異があるようで、異形の者が人などを攫ってくることも珍しくないという。私の従者が柳の元に若い女人が倒れているのを見つけたのでございます」
「まぁ」
「すでに息の無いものとねんごろに弔おうかとしたところ、微かに動きました驚きはなんと申し上げればよろしかろうか。ともかくも命があるならばこのまま放っておいては御仏の教えにも背くこととて大徳と三人がかりで必死に念踊してようやくその魂をこの世に繋ぎとめたのでございますよ」
「それはようございました。やはり御身の徳の高さに感服致しますわ」
「しかしながらその姫君は数か月もこちらとあちらを彷徨っておりまして、これは尋常ではないと物の怪調伏の祈祷を施しました。陽のあるうちに祈祷を始めたものの、物の怪はなかなか姿を見せようとはせず、どれほど祈ったでしょうか。明け方の頃にようやく正体を現したのですよ」
「なんと・・・」
「妖の正体はその昔女人に想いを残したが為に修行を成せなかった哀れな法師のなれの果てでございました。山里にて若く美しい女人の住まう邸に居つき、どうにか想いを遂げようとしたものの、すでに滅びて世を背いた身なれば報われるはずもありませぬ。力任せに女人の命を奪ってしまったという次第。どうやら攫ってきた女人というのはその亡き姫によく似ていたらしいのでございますよ。まこと罪深い行いですなぁ」
「それでは鬼がその姫君を攫ってきたということでございましょうか」
「そうらしいのです。しかしながら姫君は観音菩薩に守られた清い御方でいらしたので、妖も思うようにはできなかったようでございます。折しも初瀬の観音さまに詣でた我ら一行なれば、出逢うべくして姫との縁が結ばれたのでしょう」
「それはまことに不思議な縁でございますわねぇ」
「はい。実はその女人は私が此度山を下りる際に御仏へ帰依する志を示されました。まだうら若く麗しい姫でしたので躊躇われましたが、本人のたっての希望もあり、鬼に魅入られるような人でしたので、これも観音さまの思し召しと髪を下して差し上げたのですよ。私の妹はこの姫を自分の娘と思って可愛がっておりましたのできっと今頃は深く恨んでいるに違いありませぬ。そう考えると御山に戻るのも些か気が重いところですな」
「そうですか。それにしてもどうしたご身分の方が鬼に攫われるような目に遭うたのでございましょうね。それほどの姫ならばきっと身内の方々も血眼になって探されていることでしょう」
「はい。そう思うのですが、もしやあまり身分の高くない御方なれば諦めてしまわれたのかもしれませんな。しかし並々ならず尊く麗しい姫君であらせられるのですよ。龍の中からでも御仏はお生まれになることとて、もしや田舎人のような賤しい腹の出の姫かもしれませぬ。姫はといいますと、事情でもあるのかご自身がこの世にあるのを知られたくないご様子。もはや出家された身なれば瑣末なことに煩わされず穏やかにお勤めされるに越したことはございませんな」
「そうですわね」
そう笑みを浮かべた中宮ではありますが、どこかこの話が胸に引っかかるのでした。
中宮は傍らに控える小宰相の君も思案顔でいるのが気にかかり、僧都が退出した後にそっと耳打ちされました。
「小宰相、薫の亡くした想い人は宇治にあった人ですね。そしてその亡くなった経緯も常とは違い、遺骸のない葬式であったとか」
中宮と同じことを考えていた小宰相の君は目を見開いて頷きました。
「中宮さま、わたくしも同じことを考えておりました」
「もしや」
「もしや・・・。しかし、姫君は生きていられることを知られたくないようですわね。それにまだ肝心なことがわかっておりません。本当に薫君がお探しの姫かどうか」
「ああ、そうですねぇ。薫に教えて差し上げたいけれどどうしたらよいか」
「もしも別人であったならば、傷を抉るようで悲しみもさらに深まりましょう。ここは慎重にしなければなりませんわ」
「本当にそうね」
中宮がそうして口を閉ざしてしまわれたので、小宰相もここは急いてはならないと己を戒めるのでした。
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