ダイヤの鳥籠

通信制高校に通っていた私は、全日制の高校生と違って日中アルバイト以外にすることがなかった。
恋愛に勤しむこともなく、友達と放課後に遊びに行ったりするような青春の風景も無く、ぼんやりと一日を過ごしていて、
今日が何曜日なのか何月何日なのかも曖昧だった。
そんな忙しいなんて言葉とは無縁の生活のせいか、答えの無いことをぐるぐると考える時間が多かった。特に時間を費やしたのが「幸せ」のこと。

ずっと幸せに不安を覚えていた。
私は幸せの絶頂にいるとき、今が最高なのだからこれからは落ちていくしかないんだと、そんなふうに考えてしまうおもしろくない人間だ。
だから「楽しい」や「嬉しい」を感じ取って笑おうとした途端感情をシャットアウトして作り笑いに切り替えたりもした。


そんなふうに明るい感情に蓋をしながら、幸せでも不幸でもない生ぬるい日常を過ごしていた。
生ぬるいけれど、それはそれで居心地は良かった。
なんといったってゆるやかな下り坂のような生活なのだから、そこから落ちていったとしてもダメージも少ない。


つまり、幸せは苦労だ。心が大きく動くから疲れてしまうし、これからは落ちるしかないんだと怯えなければいけない。
だから幸せになんてならなくていい、今の白でも黒でもないグレーみたいな生活で、
このテンションで生きていけばいいや、と。

贅沢だと思う。幸せになろうと思えばなれるのに、疲れるからとあえてならない。なろうとしない。

幸せになりたくてもなれない人もいるのに、と怒られてしまうだろうか。なんて
ぼんやり考えたけどその頃の省エネ状態の自分は何に対してもどうでもいいと考えていた。
夏の暑さも相まって、脳みそがドロドロに溶けていくようだった。


私は夏が嫌いだった。
セミの鳴き声に起こされるし、太陽が眩しくて頭痛がするし、虫も大量に発生する。
そんな憂鬱な気分のまま夏を過ごしていたある日、何となく1人でどこか行きたくなって、新幹線を乗り継いで日本1の星空が見られる展望台に行った。
夜になり、少し肌寒かったけど
懐中電灯とスマホの灯りを頼りに展望台に登った。

田舎だからか、誰もいなくて静かだった。
空を見るのが楽しみだったから、登っている最中は一度も空を見ずに歩いた。
そして15分くらい歩いたころ展望台に着いた。

空を見上げるとそこは見たことのない絶景だった。星は偏ることがなく、空一面に散らばっていた。
ふつう夜は、こちらが灯りで眩しくて空が暗いのに
そこは本当に空だけが明るくて眩しかった。
街にいると絶対に見ることができない星の輝きに感動し、私は口角を緩ませていた。自然に生まれた感情に素直になった。

そして、懐中電灯を上に向けると明るい星空の中にもその細い光がちゃんと届いた。昼間は、空までの距離が無限に感じるのに、その夜見た星空には手が届きそうだった。

そこでハッとした。幸せってもしかしたらこういう瞬間のことをいうのかもしれないと。
幸せとは生活の中の少し特別な1ページというだけで、心の中がかき混ぜられて苦しくなったり、自分のエネルギーが激しく燃焼したりするものではなかったのだ。
実際その星空を見た次の日には何事もなかったかのように新幹線に乗って家に帰り、またいつものぬるい生活に戻っていった。

今までの何の面白みもない生活だって、不幸でないだけで十分だったし、それが日常というだけでかなり幸せなことだと思う。
ただ、もう少し日常に刺激を求めてもいいのかもしれない。
ありがたいことに私はそれを、望めば手に入れることができる環境にいる。


さて、これからの夏はどのように過ごそう。
少し遠出をして花火でも見に行こうか、それともまた1人で星を見に行くか、
友達とお揃いの浴衣を着て夏祭りに行くのも楽しそうだ。

短い学生期間を、思いっきり楽しみたい。その貴重な時間は、後からいくら望んでも買うことはできないのだから。

幸せは怖くも苦しくもない。もし幸せにいるときに、恐怖が足を引っ張ってきたとしても、日常はいつもそばにあるし、そこにはちゃんと時間が流れている。

自分が一番安心を得て心地よく過ごせる人生を、自分自身で選んで決めていけば良いのだ。
そして煌びやかな生活が続いて疲れたときには、いつでもダイヤの鳥籠に戻ればいい。

私たちは誰かに生活を指示されているわけでも、こう生きなければならないと決められているわけでもないのだから。

そう自分で考えることができた、2020年の夏休みでした。





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