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毒親というには。

私にとって、母は「がん」のようなものでした。
細胞にとりついて、奥の方から私を蝕んでいく。
コリコリとした「しこり」が、皮下に確実にあるような。
でも、ずっとそれを気にし続けるには、あまりに当たり前に身体の中にあり過ぎて、こちらの気分の良い時はスッと忘れてしまう。

大好きだった母が、いつしか疎ましく思うようになりました。
私だけが彼女を助けられる。だから頑張らねばならない。
そう思って、大人になりました。

けれど、気づいた時には「いつ私は解放されるのだろう?」と思うようになっていました。
母の寿命を考え、あと何年くらい続くのだろうと数えたことも。
まだまだ私のこの黒い気持ちは続いていくのだと思いました。

母の行動にため息が毎日止まらなくなった頃、彼女は死にました。

自ら、命を絶ったのです。
67歳でした。


世の中に「毒親」という言葉が浸透し、私は初めて母のことを「おかしいかもしれない」と思うようになりました。

いくつかの「毒親」についての作品を読みました。
研究するほどではありません。学ぶというよりは、興味が出てきた感じです。手の空いている時に、電子書籍で眺める程度。
「ああ、それ解る。」と毒親に痛めつけられていた作者の文章に、同意したこともあります。
「でも、うちはそこまででは無いから。」と思うこともありました。

殴られたことや、口汚く罵られたことはありません。
むしろいつでもどこでも愛されていました。
罵りなら、もしかしたら私の方がしていたかもしれません。

小学校の頃は、私が遊びに行くことすら心配をして、外に出さなかったくらいです。
(と言っても、当時小学校の登下校の道のりは、片道40分ほど。遊びながら帰ってくる私は、帰宅時はもう5時近かったので当たり前といえば当たり前なのですが。)

もっとずっと小さな頃には「あなたは橋の下で拾ってきたんだ。悪い子ならまた橋の下に捨ててに行くよ」とは言われたことがあります。(何故かしら。)
母にとっては、おそらく子供だから覚えていないだろうと思ったのかもしれません。脅すことで、私に言うことを聞かせようとしたのかもしれません。
小さな頃の私はそんなことを言われ、大泣きをしました。ひとしきり泣いた後、母からごめんねと謝られ抱きしめられました。そして、また私は泣きました。抱きしめられて、安堵していました。
この叱り方は、小学校の間、ずっと続いていたように思います。
私が高学年になってくると、泣くことが儀式のようになり「大好きだから怒るの」と母に言わせればこの場は終わる、何も言わずに泣いておこう、くらいの気持ちでいました。もちろん、こんなことは母には口にしたことはありません。怒られるのは嫌でしたが、抱きしめられるのは嬉しかったように記憶しています。

段々と大人になるにつれ、私は母に反発するようになりました。
あくまで、一般的な大人への階段の登り方だと思います。
両親からの見守り方も、ごく一般的な家庭のものだと思っていました。

それが、徐々に。私が大人になればなるほど、段々と。
母と私の溝ができていきました。

そして、ついには死んでしまった母。
そんな私と母のお話を、徒然なるままに書き残していこうと思います。

このままでは、良いことも悪いことも忘れていきそうだから。
「お母さんの良いところを思い出してみて!」と言っても貰ったんですが。
私は、悪いことも思い出していこうと思います。

私が一生、母のことを忘れないように。

書かなくても、忘れられるはずも無いけれど。




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